ヴァイオレット奇譚2

Chapter0◆「まごころのすべて―【2】」




 翌朝。
 太陽が昇るのと同時に目覚めた少年は、朝一番で猟師に売ってもらった狐の皮を剥ぐため 庭先にある納屋へ向かった。ここ北ヨーロッパにおいて毛皮は必需品であるし、何より狐の毛皮は金持ちが喜ぶ。 まだ幼く、体の小さい自分が大人に混じって狩りに出向くことは出来ないけれど、父が残してくれた 毛皮加工の技術がある限りは食いっぱぐれる心配は無いだろう。

 そんなことを考えながら納屋の扉を開けて、それから足を止める。
「…………」
 薄汚い土の上に薄汚い布一枚敷いて、長い黒髪の女が寝ている。 その見慣れぬ毛色と見慣れぬ顔立ちに彼は一瞬戸惑った後、まさか泥棒だろうかと考えて 近くにあったナイフへと手を伸ばし、そっと刃先を女に向ける。
 身長の倍はありそうな髪の長さにも驚いたが、何よりも驚いたのはその女の格好だった。
 薄手の、これはドレスと呼べる代物だろうか。肩に細い紐を引っ掛けただけの黒いドレス。 この格好で一晩明かして、よく凍死しなかったなぁと人事ながらに感心していると、 突然女が呻いた。
 扉の隙間から入り込む朝の日差しを鬱陶しそうに身じろぎして避けながら、やがて 避けきれないと知ると両手でまぶたをこすりながら女が起き上がる。 少年が、ナイフを握った手に力を込めた。

「……誰」
 先に言葉を発したのは女のほうだった。
 準備していた言葉を横取りされて、少年が咄嗟に口ごもる。
「……誰なの」
 逆光で、まぶしいのかもしれない。女が細めた目でせわしなく瞬きを繰り返す。 そのうち、相手がナイフを握っていると知ると、女は一瞬驚いた後、とても悲しそうな声で呟いた。
「殺すの?」
「……え」
「私を殺す?」
 小さな子供みたいに、つたない喋り方だった。
 どうしてだろうか。見た目は自分の母親とそれほど違わぬ年齢を感じさせるのに、 言葉を紡いだ瞬間、女は幼女のようにあどけない印象を相手に与える。
「……私を殺す?」
「……」
「どうして殺すの?」
「……殺さない」
「殺さないの?」
「……うん」
「本当に?」
「出て行って欲しい。ここは、俺の家だから」
 淡々と告げると、女は心の底から驚いたような表情で辺りを見回し、 ごめんなさいと答えて立ち上がり、戸口にいる少年の脇をするりと抜けて外へ出る。
 それから振り返った女に背後を取らせまいと少年も振り返る。 今度はこちらが、逆光に目を細める番だった。
「いくつ?」
 瞬きを繰り返す少年に女が問いかける。
 よそ者に、しかも人の家の納屋に忍び込んでいた不審者に答えてやる義理はないと考えそれを 無視すると、彼女は困ったように首を傾げて作業を始める少年の後にまとわりつく。
 予想だにしない相手の行動に内心驚きつつも、うっすらと理解し始めた少年は、ナイフを研ぎながら ため息を零した。
 関わらないのが一番なのだ。自分は無知だけれど、こういう人間が「何なのか」は知っている。 こういう者は、ごくたまに存在する。
 可哀相だと嘆く傍らで、関わるなと母は言う。

「ねぇねぇ、いくつなの?」
「……十二だよ。うるさいなぁ」
「十二歳なの? そうなの?」
「答えたんだから、あっち行けよ」
「名前はなんていうの? なんていうの?」
「…………」
 もう一言だって喋るものかと腹に決めて少年が研いだナイフを眺め、 それから籠に入れておいた狐の死骸を取り出し、慣れた手つきでナイフを滑らせる。
 途端に、背後から悲鳴が上がった。
 驚いて振り返った少年に、半狂乱になった女が飛び掛り、力ずくでナイフを取り上げる。
「やめてっ!」
「…………」
「どうしてこんなことするのっ! どうしてっ!!」
「……どうしてって」
 売れるからに決まってるじゃないかと言いかけて、言葉を飲み込む。
 女の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ始めていた。
「痛いことはしないであげて……っ!」
「……でも」
「たったそれだけなのに、どうしていつも誰も聞いてくれないのっ! もうだいっきらいっ!!」
 そう叫んで、すでに死に絶えた狐を抱え女が走り去っていく。
 その様を、言葉も無く、ただ呆然と眺めていた。
――……なんだ?
 気が咎めるのなら、見なければいいのに。勝手に踏み込んで、覗き込んで、大嫌い?
「……誰だよ」
 そう呟いて、獲物を逃したナイフに視線を落とす。
 いい毛並みだったのに、まんまと盗まれてしまった。



******



 それから二日。
 ある事件によって、少年の住む町はちょっとしたパニックに陥っていた。

「何か、強力なウィルスかも知れないね」
 その騒動を遠巻きに眺めながら、牧師が呟く。
「初めて話を聞いたとき、私は黒死病に匹敵する感染症が現れたのかと思って随分慌ててしまった」
「…………」
「だから今回の件はとても残念だけれど、そんなに肩を落としたらいけないよ。 家畜のみを攻撃する菌で救われたと考えよう」
「……はい」
 牧師の慰めに、幾分覇気のない声で少年が答える。

 突然この町に上陸した謎のウィルスは、家畜という家畜を、否、獣という獣を たった二日で絶滅の危機へと追いやってしまった。
 この異常事態に人々はなすすべも無く、路頭に迷った猟師が救いを求めて 教会に溢れかえり、これは大地の怒りだと主張する老人がやはり救いを求めて教会に溢れかえり、 職を失った亭主を嘆く妻たちが、これもまた救いを求めて教会に溢れかえっていた。
 こんな現状を、牧師は苦笑いでさらりと流す。
「……何かこの町に、良くないものが入り込んだのかもしれないね」
「良くないもの?」
 隣で首を傾げている少年に、にっと牧師が微笑む。
 いつも疲れた印象のくぼんだ目元と、大きな鼻。それから、優しい笑顔。 それを見上げているうちに、先の騒ぎですっかり忘れていたことを思い出した。
「あの、これ」
 無造作に詰められた花をカゴごとつき出した少年に、「ああ」と 答えて牧師がそれを受け取る。
「いつもありがとう。素敵な花だ」
「……」
「これが部屋にないと、どうにも落ち着かなくてね」
「あの……」
 思い切って切り出そうと首を伸ばした瞬間、真っ直ぐにこちらを見下ろす牧師と視線が交差する。
「……」
 どうしてだろうか。
 くぼんだまぶたのその奥の瞳が、どこまでも暗くにごっている気がして、背中に寒気が走った。
 彼は大人だけが使える無言の圧力で、これから少年が紡ごうとした言葉を制止する。暗い暗い 瞳の底で、少年にプレッシャーを与え、その先の言葉を封じ込めた。
 牧師を怖いと思ったのは、これが初めてだった。

「あの……そろそろ帰ります」
 ようやく喉からひねり出した言葉に、相手はいつもの笑顔で頷き、帰路に着く少年を見送る。
 少年はその場からバネのように駆け出し、いっきに坂道を登りきった所で立ち止まり振り返った。
――なんだったんだろう……
 あの花の名前を知りたかっただけなのに。いつも失敗してしまう。

「知りたい?」

 突然背後からかけられた声に振り返る。
 長い黒髪を薄手のドレスと一緒に地面に引き摺りながら、納屋にいた泥棒の女がこちらに向かって 微笑んでいた。
「……あ」
 見覚えのある顔に少年が声を零すと、女は風も吹いていないのにふわふわと なびく髪を引き連れて近寄る。
「あの花の名前は、リネア」
「…………」
「知りたかったんでしょ?」
 呆気にとられている少年の顔を覗き込んで、女がもう一度花の名前を口にする。
「……ど、どうして知ってるんだよ」
 動揺を隠せない少年の質問に、女はポカンと口をあけ、しばらく考え込むそぶりを見せた。
「どうしてって言われても、だって有名な花だもの」
「そうじゃなくて」
「え?」
「どうして俺がそれを知りたがってるって、あんたが知ってるんだよ」
「…………」
 女がもう一度口をポカンとあけて、今度はさっきよりもう少しだけ長く考え込む。
「……分からない。でも、分かるの」
「は……?」
「強い願いは、黙っていても言葉になってしまうでしょう?」
「……いや」
 しまうでしょうと、言われても。
「疑問は特にそう。さっきあなたが声に出来なかった質問。 私にはちゃんと声になって聞こえるの」
「…………」
「だから教えてあげたの。あの花はリネア。リネアと言うのよ」
「リネア……」
「そう。リネア。で、あなたの名前は?」
「…………」
「あなたの名前は?」
「…………」
――声だ……
 そんな彼女を眺めながら、少年が気付いた。
 母とそう歳が変わらないであろう彼女の印象を、一体何がここまで幼くしてしまうのか。 まるで妹たちと話している気分になる。
 それもこれも全て声のせいだ。
 鈴を転がすように美しく澄んだ声。高く、どこまでもあどけない声。 それが彼女の印象を、見た目よりもずっと幼いものへと捻じ曲げている。

「……クレア」
「クレア?」
「そう」
 やっと聞けた。そう言って女が微笑む。
 それからぶつぶつと何度も復唱して、握ったこぶしでこつこつと頭を叩く。 そのおかしな動作を見て、少年が怪訝な表情を浮かべた。
「こうやってね、頭に叩き込むの」
「……何を」
「名前を」
「…………」
「叩き込むの」
「……あの……別に忘れてくれてもいいよ」
 少しずつ強さを増していくその拳に、思わず気が引けて言うと、女は強く首を振った。
「忘れない。この名前は一生忘れない」
「……」
「だけど私の頭は余計なものでいっぱいだから、本当に大事な名前はこうやって 一番奥に叩き込んでおくの。知らないうちに押し出されて、こぼしてしまわないように」
「……へぇ」
 もうなんと答えていいのかも分からず、とりあえず口から出た適当な返事で誤魔化す。 行動がとっぴ過ぎて、ついていけない。
 ただ、どんどんと激しさを増していく自傷行為まがいを見過ごすわけにも行かず、 背の高い彼女の前で、つま先で立ち腕を伸ばす。
 やっとのことで掴んだ腕は、母よりもずっと細くて、一瞬ぎょっとしてしまった。
「……もういいよ。そんなに叩いたら馬鹿になるよ」
「馬鹿に?」
 きょとんとして首を傾げる女性に、もう遅いかという言葉はもちろん飲み込んでクレアが頷く。
「忘れちゃったら、また教えてあげるから」
「…………」
「だからもういいよ」
「……本当に?」
「うん」
「私が忘れちゃっても、また教えてくれる?」
「うん」
 頷いて、掴んだ手を離そうとした少年を女がすかさず抱きしめた。
「私の名前も聞いて」
 痛いほどの力で抱きしめられ、腕の中でもがいていた少年がうんざりしたような ため息をついた。無邪気な子供のような言動に油断していたけれど、力の差は歴然としていて、 ただでえさえ小柄な自分の腕力では彼女の体はびくともしない。
「あなたの……名前は何ですか」
「知りたい?」
「…………」
 足を踏んでやりたい。
 一瞬そんな衝動に駆られたけれど、ぐっと堪えて頷く。 おちょくるような態度は確かに面白くなかったけれど、白くて柔らかい腕は温かくて、少しくらい絆されても 大丈夫だと思わせる安心感があった。
 あとは多分、彼女があんまりにも無邪気な声で笑うせいだ。

「私の名前はアンジェリア。アンジェリアよ」
「……アンジェリア」
「すぐに忘れてしまう?」
 やっとのことで体を解放されたかと思いきや、不安そうな面持ちでこちらを覗く女と目があった。
「……多分、大丈夫」
「本当に? 叩き込まなくて平気?」
「うん」
 多分大丈夫。
 ぎちぎちに情報が詰まっているらしい彼女と比べて、きっと空っぽに違いない自分の頭に しっかりと刻まれた名前。多分、忘れることはない。
 今この時から、いつか目を閉じるその時まで、おそらく忘れることはない。



PREV    TOP    NEXT


Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved.