ヴァイオレット奇譚2

Chapter4◆「マグナマーテルの憂鬱―【3】」




「それは箱根空木だね」
 万莉亜が指差した小さな新芽を、顔を向けて確認する事もなく、手元に視線を落としたまま 老齢の校務員が答える。それが面白くて先ほどから何度も違う花や芽をさしては訊ねてみるのだが、 彼はその全てに見事に答えて見せた。

「ハコネ?」
「ハコネウツギだよ。スイカズラ科の花で、咲き始めは白い花なんだけど、そのうち色をつけはじめるんだ。 立派な樹木になったらもっと広い場所へ植え替えてやらないとね」
「……大きくなるの?」
「なるさ。大抵は庭木として植えるんだ。盆栽なんかにしてもいいけどね」
「へぇ。初めて聞いた。面白い名前ですね」
「箱根空木が? そうだねぇ。スイカズラの花なんかならよく見かけるんだけどね。焼却炉の裏の林にもあるし、同じスイカズラのリンネ草なんかが あるね」
「ふーん」
「大抵はこう、ラッパみたいな形のね、ちっちゃい花なんだ。それで、少し俯いている」
「あ、そういうのなら見たことあるかも。小さいラッパがたくさんついてる……」
「そうそう。本当はみんな色んな花を、知っているんだよ。名前なんて知らなくても、それは別に重要じゃないからね」
 顔を上げてにっこりと微笑んでくれた相手に、万莉亜もつられて笑顔を見せる。
 取りとめのない話が続く中、作業の手は止めずに、けれども嫌な顔もしない校務員の隣にしゃがみこみ、 こうして時間をやり過ごす。
 本当は、新校舎へ向かいたいのに、憂鬱な気持ちが邪魔して足取りが重くなってしまう万莉亜は、 いつだってこの中庭の花壇で立ち止まってしまうのだ。
 そうして、「また明日にしよう」と思えるほどの時刻が訪れるまで、ひたすらにやり過ごす。

「私も、花を育てようかな」
 ふと思い立ったままに口にすると、隣の男性は小さく笑ってそっと頷いた。
――おばあちゃんにあげたら、喜ぶかな
 今までは、いかに奇想天外な贈り物をして驚かせるかに情熱を注いでいたが、 丹精こめて育てた花を贈るのもいいかもしれない。そう考えると、どんどんとそれが名案に思えてきて、万莉亜は 色とりどりの花を思い浮かべた。
「この花壇で育てるといいよ。鉢植えで育てるよりその方が良い」
 ぼーっと空を見上げている少女に男性が言う。
「いいんですか?」
「もちろん。これは君達の花壇だからね。それにね、ここの土は裏の畑から運んできた良い土を使っているから、きっとよく育つ」
 
 後押しされてすっかり上機嫌になった万莉亜が、頷きついでにふと敷地内にある屋外時計を見上げたとき、 視界の隅に校門の入り口に立つ一人の女性の姿が見えた。
 淡いベージュのVネックセーターに、黒いタイトなミニスカートをはいた彼女は、背の高いスレンダーな女性で、 とくにすらりと伸びた長い足が魅力的だった。
――……誰だろう……
 通りすがる生徒達は、そんな彼女にチラチラと視線を送るだけで、誰も話しかけようとはしない。 校門の入り口で、腕を組み、仁王立ちのまま止まっている彼女は、助けを求めているようにも見えるし、 じっと校舎を睨みつけているようにも見える。
 しかし肝心の彼女の表情が全く分からないので、万莉亜も声をかけるのは躊躇われた。
 大きな黒いサングラスが、彼女の表情を全て覆い隠しているせいだ。

「ねぇおじさん、……あの人、誰でしょうね?」
「ん? ああ、本当だ。お客さんかな」
 校務員の男性も、振り返って首を傾げる。
「困ってるみたいだね。名塚さん、職員室へ案内してあげたらどうかな」
 万莉亜が三年生で、寮長も務めていることを知っている彼が、信頼の目を彼女に向けて また土いじりを再開する。
 万莉亜は少しだけ戸惑った後、おずおずと立ち上がり、ゆっくりと校門に立つ人物へと歩み寄った。
 意味もなくびくついてしまうのは、相手が妙な威圧感を放っているせいだろうか。 でも、威圧感で言ったらハンリエットの方がいくらか手強そうだ。
 結局緊張の原因も分からないまま、万莉亜は女性にそっと声をかけた。
 相手は、おそるおそる近寄ってきた女生徒に、先ほどからじっと顔を向けていたので、声をかけられても 驚いたようなそぶりは見せず、むしろ親切そうな相手にニコリと微笑み、「こんにちわ」と、 少し訛った口調で挨拶をする。
――……あ……
 気付いた瞬間、万莉亜は全身が硬直するのを感じた。
 短い挨拶だけで、彼女が日本人ではない事を知る。流暢ではあったが、ネイティブには若干遠いその 独特のイントネーションに、どっと冷や汗が吹き出した。
 それから、自分が恐れていたものに気付く。
 彼女の大きくて黒いサングラス。本能で、それに怯えていたのだ。
 けれどマグナであったころに比べ、最近はそんな危険な目にあうこともぐっと減って、気が緩んでいたのかもしれない。 何に警戒すべきかを、忘れてしまっていたなんて。

「あ、あの……」
 上ずった声で言いながら、一瞬のうちに考える。
 何も知らぬ振りしてやり過ごすのが正解だと分かっている。
 万が一彼女がクレアの敵である「彼ら」の一味であっても、 自分はマグナではないのだし、黙っていれば上手く一般の生徒としてやり過ごせる。それが分かっているのに、 震え始めた指先が止まらなくて、万莉亜は気付かぬうちに後退を始めていた。
「……? 大丈夫ですか?」
 目の前の女性が、突然蒼白になった少女を気遣うように訊ねる。
 弾かれたようにして顔を横に振りながらさらに後退をしようとしていた万莉亜の肩に、女性の指先がそっと触れた。
「いやっ……!」
「え……」
 振り払い、少女が駆け出す。
 猛スピードで、一目散に新校舎に駆け込んでいった彼女の後姿をポカンと眺めながら、女性はしばし 考え、納得したように頷くとその後をゆっくり追い始めた。



******



 バタバタと新校舎五階へ続く螺旋階段を駆け上がっていると、途中、降りてきた人物の 胸にまともに顔から突っ込み、弾力で後ろにひっくり返りそうになる。
 そんな万莉亜の体を慌てて掴み、間一髪の所でハンリエットが引き上げた。

「万莉亜、階段は走っちゃだめよ。危ないでしょ」
「ハ、ハンリエッ……い、今、下に!」
「下に?」
 息を切らして興奮している万莉亜を見て、相手が首を傾げる。
「校門のところにいたんです! お、女の人がっ!」
「それは……一大事ね」
「じょ、冗談じゃなくてっ!」
「まぁ落ち着いて。上に行きましょう」
 パニック状態の万莉亜から話を聞きだすことを潔く諦めたハンリエットが、万莉亜の手を引きながら来た道を戻る。
 そんな二人の背中を、もう一つの声が呼び止める。

「ねぇ、待ってよ」

 予期せぬ事態に、さっと体を硬くしたハンリエットが、万莉亜を背後に押しやる。
 そして、階下に立つ見知らぬ女にきつい視線を向けた。

「誰」
「あなた、枝? もしかして、ハンリエット?」
「…………」
「私のこと、知らないかな? 聞いてると思うんだけど」

 言われて、ハンリエットがじっと目を細める。
 意志の強そうなくっきりとした眉に、強い目元。ラテン系のまあまあな美女だが、 そんなことはどうでもいい。外されたサングラスの下の、バイオレットの瞳。それさえ分かれば十分だ。
 外部の異端者に知り合いなどいないし、いたとすればそれは例外なく敵。
 一瞬で判断したハンリエットが、腰に忍ばせてあったリボルバーに手をかける。

「ヴェラよ」

 しかし、相手のその言葉を聞いて、手を止めた。
 その名前なら、確かに知っている。知ってはいるが……。

「……何の用」
「クレアに会わせて欲しいの。話があるから」
「お断りよ」
「……ねぇ。マグナのことは、本当に残念だったと思ってる。あんなに大事にしていたのにね……。 でも、結果とはまた別に、私が協力したってことまで、そんな大事なことまで忘れちゃうなんてひどいじゃない。私はクレアの味方。 私たちは同志なの。知ってるでしょ?」
「初耳だわ」
 答えるのと同時に、ハンリエットが素早く発砲する。
 弾は、ヴェラの額に貫通し、その隙にハンリエットが万莉亜の背中を強く上へと押し飛ばした。
 混乱しながらも、相手の無言の指示通りそのまま跳ねるように階段を駆け上がる。
 万莉亜が五階のフロアに到着すると、ちょうど銃声を聞きつけこちらに向かってきたルイスと鉢合わせ、 彼は万莉亜の姿を見つけるや否やその腕を引き、理事長室へと向かった。

「クレア」

 言うのと同時に開かれたドアの向こうに、クレアはいた。
 部屋にある大きなソファ座り、正面のガラステーブルに足を投げ出しながら眠っていたらしい彼は、肘掛に頬杖をついたまま顔を上げようとはしなかったが、 ふと万莉亜の気配に気付くと、途端にすっと立ち上がりその場から離れる。
 多分ソファの隣端に、詩織が座っていたせいだろうが、彼の取り繕いもむなしく、万莉亜は 驚きのあまり声も出なかった。
 二人が一緒にいるところをはじめて見た。そしてその距離は、思ったよりも近い。

「クレア、案の定お客様です。下でハンリエットが応戦していますが」
「行くよ。もしかしたら知り合いかもしれない」

 そう言ってシャツの上に薄手のジャケットを羽織った彼は、相手に大方察しがついているのかも知れない。 緊張感漂うルイスとは対照的に、随分悠長に部屋を後にする。
 すれ違いざま、万莉亜の前で立ち止まった彼が、彼女の手にキスをしながら、「後でね」と微笑む。
 どんな顔をしていいのか分からず、硬い表情のままの万莉亜に焦ったのかは分からないが、その手を握ったまま 、今度は唇に触れようとする。
 そうするつもりはなかったのに、気付けばさっと顔を背けていた万莉亜の唇の端に、クレアの冷たい唇が触れた。
 咄嗟に彼を拒絶してしまった自分に驚きながら、おそるおそる視線を向ければ、少し困ったように微笑むクレアと 目があってしまう。
「ここでじっとしてて」
 そう言い残して、クレアがルイスと共に理事長室を後にした。
――どうして……
 混乱しながら、視線を扉から室内へと戻す。

 すぐさま万莉亜の視界に飛び込んできたのは、驚愕に目を見開いている詩織の姿だった。



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