ヴァイオレット奇譚2 Chapter4◆「マグナマーテルの憂鬱―【2】」 詩織がマグナになったとルイスから聞かされて以来、ぱったりと新校舎の最上階を 訪れなくなった万莉亜を、迎えに来るものはいなかった。 今までなら、三日も顔を出さないでいると必ずルイス辺りがお茶に誘いに来ていたものだが、 今回はその気配すらない。たまに思いついたようにして、シリルが学園内にある公衆電話を使って 万莉亜の携帯を鳴らす程度で、しかしそれも、五分もしないうちに雑談を終えて相手は 電話を切ってしまう。 忙しいのかもしれないと、万莉亜は薄々気付き始めていた。 何に忙しいのかまでは頭が回らなかったが、人間ではないといえ彼らも彼らなりに日々生活を 営んでいる。そのための雑事に追われているのだろうと一人納得して、万莉亜は寮と校舎の往復を 静かに繰り返す。 自分からあそこを訪ねる気には、まだなれなかった。 大分気持ちは落ち着いてきてはいたが、あの場所にいるはずの金髪の青年のことを考えると、 胃がむかむかしてきて、それからひどく憂鬱な気持ちにさせられる。 だから彼らに顔を合わさずにすむ最近の平和な時間が、今の万莉亜にはありがたかった。 「最近気にしないんだね」 デスクのパソコンに向かいながら、ぼんやりとその画面を覗き込んでいた万莉亜に、 ベッドに腰掛けていた蛍が言う。振り返った万莉亜の顔が不思議そうにきょとんとしているのを見て、 思わず蛍が苦笑した。あれだけ気にしていたのに、もうすっかり忘れている様子だ。 「守屋詩織だよ。万莉亜すごい気にしてたじゃん」 「あ……」 ふと万莉亜の顔が曇る。が、下を向いて雑誌をめくっていた蛍はそれに気付かない。 「もういいの? あの子最近学校全然来てないみたいだけど」 「……そうなの?」 怪訝そうな相手の声に顔をあげて、蛍が頷く。 「知らなかったの?」 「う、……うん」 「寮の部屋にこもりっきりみたい」 それは初耳だが、ありえないことではないな、と万莉亜はため息を吐いた。 多分クレアは、詩織の興味をあの団体から逸らすことに成功したのだ。授業にも出席せずに 部屋に篭りっきりなのは褒められた事ではないが、それが命を危険に晒す事もないだろう。 怪しげな団体に興味を持ってふらふらと足を突っ込むよりは何倍もマシだ。 「進級しないつもりかな」 「さぁ……」 興味の無さそうな万莉亜を不思議に思いながらも、無理に広げる話題でもなかったので蛍はそこで話を 切り上げる。そんな彼女に、万莉亜は少しだけ名残惜しそうな視線を向け、それからぐっと堪えて パソコンへ向き直った。 本当は、蛍に相談したい。 けれどそれは出来ない。あの待ち合わせでの一件で、詩織を心配するあまり暴走した万莉亜に付き合わされた蛍は、結果的に 事件に巻き込まれるはめになってしまった。万莉亜にも、そして蛍自身にもその記憶は残っていないが、残っていない事が 何よりの証拠だ。何の関わりもない彼女まで、うっかり危険に晒しかけた。 「私お風呂入ってくるね」 いつもなら部屋の窮屈なユニットバスで済ませる万莉亜だが、 これ以上そばにいるとうっかり蛍に泣きついてしまいそうで、着替えを抱えたまま 寮の大浴場へと向かう。 「おいこら」 大浴場へ向かう途中の階段で、そう声をかけてきた人物に振り返る。 声を聞くのも姿を見るのも随分と久しぶりな気がして、万莉亜は懐かしさのあまり相手に駆け寄り 抱きつきたくなるほどの衝動を感じたが、どうせ嫌がられるだけなのでここはぐっと堪える。 「瑛士くん!」 そう呼んで階段の踊り場で立ち止まった万莉亜に、下から見上げていた瑛士が大股で近寄る。 彼は万莉亜の正面で立ち止まると、おもむろに手を伸ばし、その頬をぎゅっとつねった。 「いっ、いたたた」 「てめぇは何考えてんだコラ」 そう言って指を離す。両頬をさすりながら、なぜいきなり怒られたのか全く事情の飲み込めない彼女に、 呆れたようにため息を吐いて瑛士が腰に手を当てた。 「なんでこねぇんだよ」 「……え」 「お前が来ないと俺の待遇が悪化するだろ。保護者ならちゃんと責任を持てよな」 「……」 いつのまに保護者になったのだろうかと少し混乱したような様子の万莉亜に、瑛士は 小さく首を横に振り、それからきっと万莉亜を睨みつけた。こちらも思わず肩をビクつかせる。 しかし、次に彼から出てきた言葉は意外すぎて、ますます万莉亜の混乱は深まった。 「悪かったな」 「……は」 「悪かったなって言ってんだよ」 「は、はい!」 「お前が来なくなったのって……あれのせいだろ。あの女」 唐突に図星をつかれて、万莉亜が固まる。 間髪いれずに否定しなければならないと分かっていたのに、何も言葉が出ない。そんな彼女を見て、 瑛士は申し訳無さそうに目を伏せた。 「まぁ、それってちょっとは俺のせいだからな。俺がくだらないミスしなきゃ……」 「え? ミス?」 「気にすんな。とにかくっ、お前は変に遠慮しないでいつもみたいにずうずうしく毎日あそこへ 通えばいいんだよ。でないとあの新参女にクレアを取られちまうぞ」 「……なっ」 「あいつはあいつで節操がねぇからな。余裕こいて手遅れになったってそれは俺のせいじゃないぞ」 「瑛士くん……」 気にかけてくれていたのだろうか。 その気持ちはとても嬉しかったが、反面、言葉はナイフのように鋭く万莉亜の胸を貫いた。 「……あ、あのね」 「あ?」 「もしかして……クレアさんは……」 喉まででかかった言葉。 堪え切れなくて、瑛士に吐露しようとする自分を、万莉亜はぎりぎりのところで押さえ込み、 出かけた言葉を飲み込むと「何でもない」と首を振った。 彼は明らかになにか疑っている様子だったが、ニッと笑顔を浮かべて取り繕う万莉亜を見て、 眉をひそめながら首をかしげるだけにとどめてくれた。 ――……言えない 瑛士に聞いたところで、彼が知るはずもない。 クレアが、詩織をマグナにした理由。それにもし隠された真実があるのなら、 触れて傷つくよりは、知らないふりをしている方がいくらか幸せだと、ずるくて臆病な心が囁く。 ****** 「痛む?」 詩織の擦り切れた膝頭をちらりと一瞥して金髪の青年が訊ねる。 詩織は少し萎縮しながら、小さく首を振った。痛みは多少残っているけれど、 白いシャツを鮮血に染めた彼の前で、この程度の擦り傷に痛みを感じるわけにはいかなかった。 「こんなのすぐに……治りますから」 そう言うと、彼は少し困ったように微笑んで赤に染まったシャツを脱ぎ捨てる。まるでその場に 詩織など存在していないかのように、無遠慮に。 そんなふうにして、初めから彼はとても自然体だった。 どうしてだろうと考えて、それは最初に自分が希望した『透明人間でいたい』という願いの中に、 しっかりと彼本人も含めて忠実に叶えようとしてくれている相手の気遣いなのだと、最近はそう思っている。 クレアの側は、息がしやすい。 彼が、詩織の存在など気にも留めていないからだ。 「シャワーを浴びるから、君は部屋に戻ったら? そろそろ夕食の時間だ」 言われて、もう一度首を振る。今度は、はっきりと苦笑しながら、クレアがバスルームに消えた。 一人理事長室のソファに腰掛けていた詩織は、手持ち無沙汰のままぼんやりと天井を眺める。 この場所での生活を許されてもうどれぐらい経ったのだろうか。詩織は、相変わらず枝たちを避けながら、 この場所で日がな一日本を読んだりしながら静かに暮らしている。 食事や身の回りの世話は、全部クレアが引き受けてくれた。 彼女が、枝たちを嫌ったからだ。多分それは、初めにハンリエットに抱いてしまった畏怖の感情を 引き摺っているからだと思う。 ハンリエットも、ルイスもシリルも、親しくなりたいとは思えなかった。クレアがいるから、 このままでいいと思っている。その分彼には迷惑をかけてしまっているけれど、「マグナだから」の 一言で彼はそれを許してくれる。 でもその分、詩織にもリスクはあった。 最初に忠告してくれたクレアの言葉通り、詩織はあの日から分けのわからない化け物に 命を狙われている。今日も、身の回りの雑貨を買出しに出た途端、瞳が紫色した男の集団に囲まれた。 その中心には、あの団体の集まりで出会い、自分に銃口を向けたヒューゴという男もいた。 彼に奇襲されるのは、実はこれで三回目だった。 ほんの少し学園の敷地を出ただけで彼に出くわす。相手は、いつも詩織を捕らえようと必死だった。 しかし不思議と、恐怖は感じられなかった。 いつも側で守ってくれているクレアが、あの男よりも強いと知ってしまったから。 自分は彼らの目的など知らない。こちらの事情も、まだ中途半端にしか聞かされていない。けれど詩織には それで十分だった。 静かな生活。人目に晒されない自分だけの居場所。乱されない感情。ここにはそれがある。 ずっと欲しかったものが、ここにはある。それと引き換えになら、多少厄介な連中に命を狙われるくらい どうってことない。クレアが守ってくれる。怖がる必要はない。 胸を銃で撃ち抜かれても、腕を引き千切られても、それをものともせずいつだって守り抜いてくれるクレア。 彼は、外の世界と詩織のいるこちら側を隔ててくれる頼もしい防壁だ。 彼なら、自分の世界に存在していても良いんじゃないかと思える時がある。 静かで、口数が少なく、詩織について何か訊ねてくる事もない。まるで、静かに流れる 水のような男の人。味もしないし、匂いもない。ただ、詩織が生きていくのに必要なものだけを与えてくれる。 「何か持ってくるよ」 いつの間にかシャワーを終えていたクレアが、バスローブ姿のまま部屋を後にする。 驚いて顔を上げたときには、すでに彼は立ち去っていた。相変わらず気配の薄い人だと、関心しながら 詩織は半開きのドアを眺めた。 「……ありがとうございます、……理事長」 「クレアでいいよ」 ルイスが用意した夕食を運び、テーブルに並べる彼が言う。それから小さく「まぁ、好きにどうぞ」 と彼が言葉を足した。 それから彼は自分のグラスにブランデーを注ぎ、テーブルに座った詩織と入れ違うようにして 先ほどまで彼女がいたソファに腰を下ろす。濡れた髪の襟足から、雫が点々と足元の絨毯にこぼれ落ちる。 ちゃんと乾かせばいいのに、と思いながらも、それを言うのは躊躇われた。 彼は詩織の存在を無視している。それが詩織の望みだからだ。 それなのに今、彼に声をかけるタイミングを図っている自分は、ひどく矛盾している。 分厚いカーテンの引かれたこの部屋は、昼夜自然の明るい光を遮断し、優しく淡いオレンジの 灯火に包まれている。その中で、相手の眩い金髪だけが、詩織にはひどく眩しく見えた。 彼の存在に気がつけば、視界の隅にチラチラと金髪が入り込む。 それを、鬱陶しいとは思わない。でも、なぜこちらに向いてくれないのかと不満に思うときならある。 会話がしたい。 聞きたいことがある。 それなのにクレアは、詩織の存在を無視する。 そして思い出す。 そう望んだのは、他でもない自分だったことに。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |