ヴァイオレット奇譚2

Chapter4◆「マグナマーテルの憂鬱―【1】」




 瑛士に案内された新校舎五階の理事長室で、詩織は一人窓際のイスに腰掛けながら両手を握り締めていた。
 冷静になればなるほど、先ほどの屋敷での出来事の異常さを痛感する。あの時は、ただ興奮して場の空気に のまれていたが、今は恐怖する気持ちの方が大きい。
 けれど、あの時あの場所で感じていたあの浮遊感は、決して日常では味わえないものだった。そしてそれこそが、 詩織の求めているものだ。現実になんて引き戻されたくはなかった。ずっとあの場所で、狂っていたかった。
――人間ではないもの……
 実際に存在した。あの場にいた春川がそうだ。そして、瑛士もそうだ。この目でしっかりと見た。 あのありえない光景。あの不死の体。
 しかし詩織が最も惹かれたのは黒服の演説にあった春川の超能力だ。あれさえあれば、望みが全て叶う。 人間を、自由自在に操る事のできるあの能力。あの力さえあれば……

 手の平の肉に爪が刺さるほどぐっと強く握っていた両手を、おそるおそる開いてみる。 ずっと握っていた、小さな肉片。それは、春川が瑛士から切り取った指の先だった。
――これを……食べれば……
 あの時は、突然後ろから現われたクレアに止められてしまったが、今なら誰もいない。
――私……死ぬかな……
 沢口というあのメンバーのように、苦しみもがいて死ぬのだろうか。たったこれだけの、ちっぽけな 人肉を食べて。果たしてそんなことが有り得ようか。今となっては全て夢の中での出来事のようで、あまり 実感がわかない。
 例えば少しだけ齧ったら。表面の皮膚だけちぎって食べたらどうだろう。それでも即死だろうか。
――……ちょっと、……ちょっとだけ……
 好奇心に負けて、おぞましいその肉片を口元へそっと寄せる。その瞬間、唐突に気配を感じ、 彼女は入り口のドアへと振り返った。
 プラチナブロンドの美しい青年が、腕を組み、黙ったままこちらを見据えている。
「……あ」
 思わず持っていた肉片を手の平に包みそれを膝に降ろす。悪い事をした子供のように、 何ともいいがたい罪悪感が詩織の胸に残った。
 青年はそのままゆっくりと詩織に近寄り、彼女の前に膝をついて見上げる。
 見れば見るほどうっとりするようなその面立ちにうっかり魅入っていると、彼が静かに切り出す。
「はじめまして」
「……え」
 戸惑いながら首を傾げる。
「僕はクレア・ランスキー。この学園の理事長をしている」
「…………」
「君の事は知っている。ついでに君の望みも」
「……わたしの、望み……?」
「言ってごらん」
 甘い声で囁かれ、上手く言葉が出てこない。ぼんやりとしながら、何が一番ほしいのか、うっすらと浮かんだ 答えを震える声で呟いた。
「…………消えたいの」
「……」
「みんなの前から、いなくなりたい……死ぬんじゃなくて、そうじゃなくて……ただいなくなりたいの。 もう嫌なの。もう疲れたの。こんな世界から、私は……消えてなくなりたいの……」
 涙声の彼女の言葉に、クレアはただ頷く。それから、肉片を握っている彼女の拳に、指を這わせた。
「お安い御用だ」
「……え……」
「こんなものを食べるよりも、もっと確実な方法でそれを叶えてあげる。君と俗世の関わりを僕が断つ。 ようは、透明人間になりたいんだろう? それ、得意技なんだ」
「ほ、……ほんとに?」
「但し君には僕のマグナになってもらう」
 それは、詩織にとっては願ってもないことだった。が、以前はハンリエットに門前払いをされたのに、 一体どういう風の吹き回しだろうか。
「ちなみに僕には敵が多い。マグナになると自動的に君もそれらに命を狙われるはめになる」
「……命を……?」
「君を透明人間にすることは可能だけれど、稀にそれが通じない相手もいる」
「…………」
「君の事は、従者が命がけで守るよ。もちろん僕もそのつもりだ」
「……本当に?」
「約束するよ」
 微笑んだ彼は魅力的だった。騙されてもいいと、そう思えるほどに。
「……私……私をマグナに……して」
 消え入りそうな声でそう告げる。
 すっかり力の抜けた手の平から、クレアが肉片を取り上げて頷いた。 それからその細い手首を壊れ物のようにそっと引いて、乾いた唇を落とす。
「よろしく詩織」
 聞きたい事はたくさんあったはずなのに、詩織はそれらを全て後回しにしてただ頷く。 自分でも気がつかぬうちに、控えめな笑顔すら浮かべて。



******



 万莉亜が全てを知ったのは、翌日の午後だった。
 ふらりと新校舎へ訪れた彼女を、ルイスは多少強引にフロアのラウンジにあるソファへと座らせ、 素早くお茶と菓子を並べる。困惑顔の万莉亜にそれらを勧め、言われるがままに紅茶の入ったカップを手に取った彼女を見て、 ルイスは静かに、出来るだけ穏やかに切り出した。

 しかし彼の努力もむなしく、やはり万莉亜は衝撃に言葉を失っている。力の抜けた手からカップが滑り落ち、 中身が制服のスカートに零れる前にルイスが素早く受け取った。
「……守屋さんを、マグナに……」
 そう呟いた万莉亜に、ルイスはすかさず首を横に振る。
「万莉亜さん、これは一時的な救済処置です。そうする事で守屋詩織の興味をあの危険な団体から 逸らす事ができる。時間がたてば、きっと彼女も考えを正すでしょう。その前にあの団体が消える可能性だってある」
「マグナに……」
「守屋詩織はこの学園の生徒ですから、きっとクレアも放って置けなかったのでしょう。口ではなんと言っても、 彼はあれで結構情け深い方ですから」
「マグ、ナ」
「情に厚いというか、慈悲深いというか……いや全く、ボランティア精神に溢れた……」
 言ってて馬鹿馬鹿しくなってきたが、「言え」と命令されているから仕方ない。
 ルイスは躍起になって話の焦点を「マグナ」ではなく「正義感の強い恋人」に絞ろうと粘ったが、 肝心の万莉亜は彼の話などどこ吹く風で、難しい顔をしたまま俯いている。
――守屋さんが……マグナに……
 ルイスの言うとおりだと、頭では分かっていた。
 クレアが、重い腰を上げてくれたのも嬉しい。でも、まさかこうなるとは予想していなかった。 確かに、詩織の興味はこれであの団体から逸れるかも知れない。でも、それだけだろうか。
 万莉亜の胸に、恐ろしい疑念が浮かぶ。
 ルイスに熱弁されてもどうしても腑に落ちないのは、なぜマグナにする必要があったのかということ。
 彼女が、この場所に興味を抱いていたのは知っている。何かしら、現実に不満を抱えているのだろうという事も 気付いている。だからこそ彼女は、あの奇妙な団体に縋るようにして惹かれていったのだ。守屋詩織が、 現実離れした何かに救いを求めている事だって、本当は気付いていた。だから、この場所に 彼女を迎え入れる事は、きっとベストな救済措置に違いない。
――でも……
 マグナにしたのは何で?
 万莉亜の胸が、締め付けられたようにぎゅっと痛む。

「……私、宿題があったんだっけ」
 わざとらしい、小学生みたいな言い訳をして立ち上がると、ルイスは慌てて腕を伸ばし、 クレアを起こしてくるから、と彼女を引き止めた。
 万莉亜はそれに首を振って、笑顔を浮かべる。説明してくれたルイスに礼を言い、それから「守屋さんを よろしく」と小さく頭を下げた。ルイスが、複雑な表情を浮かべながら頷く。
 万莉亜はそれを見て、ゆっくりとフロアから立ち去り、階段を下り、新校舎を出ると、 全速力で寮へと駆け込んだ。泣きそうな顔で帰って来たルームメイトを、目を丸くした蛍が迎える。
「万莉亜?」
 心配そうな声色で気遣ってくれる彼女に悪いと思いつつも、万莉亜はそのままベッドにもぐりこみ、 引っ張り上げた布団の下で目をつぶる。
 わき上がる嫉妬めいた感情に、驚いているのは他でもない自分だった。



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