ヴァイオレット奇譚2

Chapter3◆「暗い森の晩餐会―【3】」




「さぁ」
 そう詰め寄られ、詩織は無意識にごくりと喉を鳴らした。
 目の前に差し出された瑛士の指。切り口からは鮮血が流れ、床に滴っている。
――これを……食べたら……
 死んでしまうのかもしれない。いや、一連の流れを目の当たりにした今、ほぼそうなるで あろう事は容易に想像がつく。
――でも……
 自分だけは、違うかもしれない。もしかしたら、今目の前の少年のように、人ではない何か特別なものに なれるのかもしれない。分からない。可能性はゼロではない。きっと、ゼロではないはずだ。
「馬鹿か。食うか普通。馬鹿だろお前。なんでそんなに馬鹿なんだよ!」
 片目を潰され、手足を痛めつけられ、血だらけで横たわる少年が詩織を罵倒する。
 彼はシリルが教えてくれた、第四世代の少年。人ではない、特別な存在。
――私も……私だって……
 ハンリエットに門前払いをくらい、理事長にも会わせてもらえない詩織にとって、最後の砦が この教団だった。
――死ぬのは……怖いけど……
 それが挑戦への代償ならば諦めがつく。無為に死ぬよりはよほど諦めがつく。
「おい! 本物の馬鹿かよ! やめろよ馬鹿ッ!!」
 瑛士の言葉を無視して、恐る恐るそれを口元へ運んだ。何ともいえない人肉の悪臭が鼻をつく。この大きさなら 噛まずに一気に飲み込めるかもしれない。
――神様っ……!!
 無意識に祈り、それを口の中へ運びかけたその時、背後から伸びてきた腕が詩織の細い手首を掴みあげる。
「……っ!」
 驚いた詩織が振り返ると、黒いコートに身を包んだ金髪の男性が自分の手首を掴んだままこちらを見下ろしていた。
 整った目鼻立ちと、バイオレットの瞳が印象的な男性。その精巧で攻撃的なまでの美しい顔には、見覚えがあった。
「……あ」
「後悔するよ」
 日本人離れした面立ちの彼から、流暢な日本語が飛び出す。
 あまりのギャップに一瞬どこの国の言葉かと耳を疑ったが、すぐさまただの日本語だと気付く。

「……クレア」

 横たわっていた瑛士が、静かに彼の名を呼んだ。
――……クレア? クレアって……理事長の名前……
 混乱している詩織の前で、さらなる混乱を表情に浮かべた春川がじりじりと後退を始める。その顔からは 血の気が失せ、彼は玉の汗をかいていた。
「お、おい。いいのかよ」
 足枷を解こうと手を伸ばしてきたクレアに、瑛士がそうたずねると「いいわけないだろ」ときつめの口調で 返って来た。いつもは綺麗なカーブを描いていた彼の眉が、怒りで吊り上っている。

「クレア」

 屋敷の入り口から、低く野太い声が上がる。
 顔を上げた瑛士の視界には、見覚えのある顔が映り、思わず頭を抱えたくなってしまった。
 がっちりとした大柄の男。四角いあごに墨色の髪。春川と同じようなサングラスをかけてはいるが、 あの下の瞳の色は容易に想像がつく。クレアとは似ても似つかぬ風貌なのに、なぜか同じ空気を纏っているあの男。
「ヒューゴ様ッ!!」
 恐怖に震え上がっていた春川が、息を吹き返したように嬉々とした声でその名を呼んだ。
 絶望が、瑛士の胸をひた走る。あんなに苦労して、逃げおおせたのに、一年と持たず見つかってしまった。 瑛士にいたっては、全身丸焼きになってまで一芝居うったというのに、この一瞬でその全てが水の泡だ。

「安心しろクレア。端からお前が死んだなんて思っちゃいない」

 瑛士の心の声を汲み取ったようにタイミングよくヒューゴが告げる。
――最悪だ
 何のための苦労だったんだ。
 思わず全て放棄して死んだフリに徹したくなるほど瑛士が投げやりな気分になったところで、両手足の枷が外される。
「さ、帰るぞ」
 一仕事終えたように息を吐き出してクレアが言う。
「しかしまだ日本に居たとは……お前もリンもよほど東洋人の女が好みとみえる。理解しがたいな」
「同感だね。僕もお前の好みだけは心底理解しがたいよ」
 振り返り、挑発的にクレアが微笑めば、ヒューゴは僅かに眉を上下させてこちらへ歩き出した。 一方の瑛士は完全に意気消沈し始めていた。
――もうお仕舞いだ。万莉亜のために日本に居続けてる事までばれてる……
 全身火傷までしたのに……と少年が涙を飲む。
 しかし近づくヒューゴの気配を無視は出来ない。認めたくはないが今のところ自分はクレアの従者だ。 すっかり力の抜けた体にそう言い聞かせ、嫌々寝台を下りる。特攻隊長を務めるために。

「おいヒューゴ!」

 そう言って戦闘態勢に移行した瑛士に、しかしヒューゴは目もくれず、彼はクレアの横に立つ少女をじっと見据える。 それからおもむろに銃を取り出し、その銃口を詩織に向けた。が、次の瞬間飛び出したクレアがヒューゴの顎を殴り倒し、 そのまま奪った銃でありったけ発砲する。同じ箇所に何度も弾を撃ちつけるその動作から、彼が静かに激高しているのが分かった。
「……落ち着けよ。ちょっとふざけただけだろ」
「彼女に、二度と銃を向けるな」
「それは……約束出来ないな。お前が女を囲うと、アレが不機嫌になって手が付けられない」
 ニヤニヤと答えるヒューゴの腹を思い切り踏みつけて、クレアが振り返る。 彼は黙ったまま怯えきっている詩織の手を掴み、それからスタスタと静まり返ったパーティールームを後にする。 ヒューゴは横たわったまま、何がおかしいのかクスクスと笑い続けているから、しばらく考えた後、瑛士もそのまま 黙ってクレアの後を追う。
 気がつけば辺りにいる信者たちは焦点の合わない瞳で宙を眺めていて、これはクレアが黙らせたのか、ヒューゴの仕業か 瑛士には判断出来なかったが、そのたくさんの人影の中に一人、ゴロンと床に横たわっている恭士郎が見えた。
 ほんの一瞬、どうしても彼の体を連れて帰りたい衝動に駆られた。
 そして次の瞬間、あの狭い風呂場で今も体をたたんだまま冷やされているあの男の姿が浮かんだ。
「…………っ」
 瑛士は、振り返らずにその家を後にする。

 こんなわけのわからない場所で、わけのわからない男に頭をぶち抜かれ、一人息絶えた恭士郎。
 それがお前に下る罰だと、低い声が響く。まるでエコーがかかっているみたいに、最後の音が、いつまでも 瑛士の耳に残る。



******



 新校舎の地下駐車場に、一台の白い乗用車が帰って来た。
 仁王立ちでそれを迎えたルイスは、引きつった笑顔でそれを迎える。

「ご無事で何よりです」

 嫌味で言ったつもりだったが、運転席から降りてきたクレアは「まあね」とつまらない返事を返す。 まあね、ではない。突然何かを思い立ったように学園から飛び出し、止める自分を鬱陶しそうに振り払って出かけていったのだ。 何も知らない自分はこの場で何時間も立ち尽くしひたすら帰りを待っていた。開口一番に「悪かった」くらいの言葉をくれてもいいはずだ。
「色々まずいことになったよルイス」
「でしょうね」
 後部座席で縮こまっている詩織をチラリと見てから冷たく言い放つ。そんな彼の態度にクレアは苦笑した。
「そんなにつんけんするなよ」
「……何を考えているんですか」
「何も。だからこうなった」
「…………」
 そんな開き直りを聞きたいわけじゃない。キッと強い視線を向けて説明を求めれば、クレアは観念したように ため息をついてから先に瑛士に詩織を連れて行くようにと指示を済ませる。それから、鬼のような顔をした従者を 学園の中庭へといざなった。

 月が照らす中庭の花壇には色とりどりのパンジーが咲き並ぶ。
 それらはクレアが近寄ると、いっせいに顔を向けて彼を見上げた。その奇妙な光景を、ルイスは黙って 眺める。岐路に立たされたとき、何かに迷ったとき、彼は大抵はこの場所に向かう。
「ヒューゴですか? アンジェリアですか?」
 先手を打って質問すれば、主はしばらく思案した後「両方」と答える。
「いいんだ。あの小細工は、万莉亜をターゲットから外すためのものだ。僕が見つかろうがそんなものは 大して重要じゃない」
「……本当に?」
「残念だけど、見つかったものはしょうがない。考えなしに行動したツケだ」
「なぜあんなことを……罠と分かっていてみすみす敵地へ出向くなんて、あなたらしくない」
 アルカードの裏に、第四世代はもちろんヒューゴやアンジェリアが潜んでいた可能性はあの時点で多分にあった。 だからこそ、面の割れていない瑛士を送り込んでコソコソとスパイごっこを続けていたのだ。今となってはもう、 こちら側が若い第四世代を飼っている事まで相手にバレてしまった。 つまりこれでもう、前回のような身代わり作戦が使いにくくなってしまった。
「詩織を助けたかったんだ。それだけだよ」
「なぜ」
「何となく」
「死にたいやつは死なせろと、そう言っていましたね。クレア」
「……いじめるなよ」
 ちくちくと責めてくるルイスに困り顔でクレアが返す。従者はため息を一緒に言い足りない非難の言葉を飲み込んだ。
「どうしますか。我々が生きていると知られた以上、もうここには留まれません。 万莉亜さんを守るためにも、一刻も早くこの国から……」
「この国からは出ないよ。あと一年はね」
 遮って告げられたクレアの言葉に、ルイスが眉をぴくりと上下させる。
「……ですが、あなたが日本に留まっていることが知られた今、万莉亜さんは再び恰好の標的になるわけですから」
「万莉亜は標的にはならない。死んでいるんだから、標的になりようがない」
「あなたがこの国に執着しているのがあちらに分かった時点で、あの作戦での偽装は通用しませんよ。他に 理由なんてないのですから」
「あるさ。僕は日本が好きだ。とりわけ、日本の女性が好きだ」
「…………」
「なんだよその目は」
「……まさか」
「この国に執着する理由がないのなら作ればいい。この期に及んでも日本を離れられない理由。 それが女がらみだなんて、それっぽくでいいだろ? 思いつきだけど、ないよりマシだ」
「……まさか、守屋詩織を万莉亜さんの隠れ蓑にするおつもりですか?」
「あの敷地でヒューゴに気配を悟られた時点で、咄嗟に詩織をマグナにしたんだ。理由が必要だと思ってね」
「…………」
「あいつが迷わず詩織に銃口を向けたとき、嬉しくて顔に出そうだったよ」
 月明かりの逆光で、表情のディティールまでは分からないが、クレアは確かに微笑んでいるように見える。ルイスは、 困惑した。詩織を助けたい一心で、リスクも覚悟し敵地へ乗り込んだのではなかったのか。これでは本末転倒だ。
「これから一年、また騙し合いの日々だ。お前たちはせいぜい頑張って彼女を守ってやってくれ」
「……分かりました。ですが……アンジェリア相手となれば、命の保障は出来かねます」
 その言葉にクレアは答えず、背中を向けて新校舎へと歩き出す。
 守りたいのか、そうでなのか、はっきりとした真意が見えずにルイスはその背中に再び投げかける。 一番聞きたい事を、まだ聞けていない気がする。

「クレア、あなたは……何をしにあの場所へ向かったのですか」
「え?」
 きょとんとした表情で相手が振り返った。
「なぜ、行ったのですか」
「…………」
「なぜ」
 詰め寄る彼に、クレアは微笑んだ。諦めたように、彼が笑う。
「冷たいやつだと思われたくなかったんだ」
「…………」
「彼女が望むような男に僕はなれない。だけど、そのふりなら出来る」
「……なるほど」

 百の言い訳よりも納得出来てしまったから、仕方がないとルイスがため息をついた。
 そう考えると、案外このシンプルな日本への執着の理由が、そう悪いものでは ないような気がしてくる。彼の言うとおり「それっぽくて」良いのかも知れない。 苦し紛れの小細工には違いないが、少なくとも相手は詩織の存在を無視出来ないだろう。 その影で、万莉亜の存在感がどんどんと薄くなれば、万々歳だ。
 ただしこの非情なやり方を、万莉亜は軽蔑するだろうなとルイスは苦笑した。
 そうなった時のフォローの言葉をぼんやりと考えながら、ふと花壇のパンジーを見下ろす。 花は、クレアが立ち去るとそれぞれに向きを変えて、先ほどまであった奇妙さはすでに影も形も残っていない。
 それでも、ルイスには分かっていた。『彼』がまだ、聞き耳を立てていることを。
「……なぜ」
 誰に言うでもなく、ルイスが呟いた。
「……クレアが……気になりますか?」
 答えはない。
「未来すらも見通すあなたにとっては、どうだっていいことだ。それなのになぜ、彼の言葉に 耳をそばだてる必要があるのですか。……クレアはなぜ、わざわざあなたに聞かせるのでしょうね」
 答えはない。
「……私にはよく分かりません」
 返事のない花壇に背中を向けて、ルイスは静かにその場を後にする。
 遠ざかっていくその背中を、花たちはそっと顔を向けて見つめていた。



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