ヴァイオレット奇譚2 Chapter4◆「マグナマーテルの憂鬱―【5】」 詩織がいなくなったことを、万莉亜が知ったのは失踪から二日も経ってのことだった。 色々な感情を全部押し込めて、憂さ晴らしに始めた花壇の手入れが、いつの間にか 放課後の過ごし方になり、土いじりをしているときだけは心が安らげることを知った万莉亜は、 あの日以来特に新校舎の最上階へのぼることもなく過ごしていた。 青春を堪能して欲しいと言ったクレアは、多分今は、自分との距離を縮めるよりも、 学園生活に目を向けて欲しいと願っているのかも知れない。そう思えば、一旦彼らから目を逸らすのも、 それほど難しいことではない。 が、偶然見かけてしまった血まみれの瑛士の姿を見て、それは一転した。 同じ敷地内に住んでいる。無視するのは難しい。例えば今みたいに、カラーシャツを 真っ赤な血に染めてフラフラと校門からこちらに入ってきた彼を見かけてしまっては。 放課後。大抵の生徒は寮に帰るか外に出るかしているため、閑散としていた中庭の中央を突っ切って 瑛士が堂々と新校舎へ向かう。 もとよりクレアの目くらましのおかげで、人がいようがいまいが好き勝手行動している彼だが、 血まみれの姿を見かけるのはさすがの万莉亜も初めてだった。 「瑛士くん!」 持っていたシャベルを放り投げ、軍手をはめたまま万莉亜が駆け寄る。 驚いて振り返った瑛士は、いくらか気まずそうな表情を見せてそのまま立ち去ろうとする。その腕を掴んで、 万莉亜は強引に引き止めた。 「どうしたの! これ!」 「よ、よう」 「よう、じゃない! 何なの? 襲われたの?」 はたから見れば万莉亜は一人で空気相手に騒ぎ立てているおかしな人だ。 自分でも自覚していたため、言いながら人気のない校舎の影へと移動する。瑛士は僅かに抵抗しながらも、 結局は彼女に引き摺られるがまま、やがて諦めたようにため息を吐いた。 「ちょっとな……絡まれてさ」 「か、絡まれてって……だってこんなに血が」 彼の手足胴体は勿論、顔にまで大きな切り傷が見える。絡まれたというレベルの話ではない。 「な、治るの?」 「治ってきてるだろ。大分良いよ」 「……」 どれほど痛めつけられたのだろうと想像して、背筋が寒くなった。 「どうして……こんなことに」 「…………」 頑なに口をつぐんでいる彼を見て、万莉亜はどうしようもない焦燥感を募らせる。 彼をこんな風に口止めできる人物はたった一人だ。そして、その人が隠し事をしている場合は、 大抵耳を塞ぎたいほどのひどい内容なのだ。 「……瑛士くん、クレアさんに……言うなって言われてるんでしょ」 「……」 「言って」 「……それは、まずい」 「お願い! また私だけ何も知らないなんて嫌だよ」 「い、言えない」 その場で延々、言う言わないの押し問答を繰り返し、やがて降参した瑛士は、出来るだけ 慎重に言葉を選びながら切り出した。 「……守屋詩織が、戻ってこないんだよ」 ひそめた声で呟かれた言葉に、万莉亜が眉をつりあげた。 ****** 「こんなことがばれたら、俺本当に殺されるな」 バスの揺れに振動して、瑛士の声も跳ねる。隣に座った万莉亜は 静かに首を横に振って、それを否定した。 「そんなこと、絶対させないよ」 「あんたの発言にどれほどの力があるかね。どうも肝心なところで相手にされてないよな」 「……あそこに住めなくなったら、私の部屋に来ればいいよ。ルームメイトの蛍もいるけど、いい子だよ。 きっと仲良くなれる」 「…………可愛い?」 「もちろん。あ、ちょっと、蛍に変なことしないでよ!」 「へいへい。別に、あそこ追い出されたって、俺は困らねぇけどな」 「瑛士くん?」 「まぁ、なんつうか、俺はどうとでも生きていけるさ。……最近それに気付いたんだけどな」 「……」 ぼんやりと窓の外を眺めながらぽつりぽつりと呟く瑛士の言葉に耳を傾けながら、 万莉亜は先ほどの彼の説明を反芻していた。 ――『……あいつが詩織をマグナにしたのは、ヒューゴに日本にいることがばれたからなんだ。 詩織は、単なるお前の隠れ蓑なんだよ。だからあんな、わざわざ宣伝するようにあちこち連れまわして、そのたんびに 相手に襲わせて。おかげでこっちはとんでも激務だったんだぜ ……今回だって、詩織が帰ってこないのに、あいつら捜索もろくにしないで。俺は、あの女にこれっぽっちも 思い入れなんざないけどよ、でも、別に俺一人くらい探すやつがいてもいいかなって思ったんだよ。見つけるどころか、 返り討ちにあったけどな』 思い出し、思わず顔を覆う。 なんてことだろう。これでは詩織は万莉亜の身代わりだ。 「やっぱり……戻ってあいつらに頼んだほうがいいんじゃねーの」 苦悩している万莉亜に気付いて、瑛士がそっと呟く。けれど、今はクレアも、彼の忠実な従者である枝たちも、信用できないというのが本音だった。 口では上手く言っても、彼らが詩織を救出してくれる保証はない。 それに、唯一の味方である瑛士まで取り上げられる可能性がある。 だから万莉亜は、鞄一つ引っつかんで学園を飛び出し、通りがかったバスを止めて乗り込んだのだ。 邪魔されたくないという衝動に従い、素早く大胆な行動に出た。 ただ、やはり不安は大きい。 枝もなしに外出、それも敵地へ乗り込むとなると、想像も出来ない危険に胃がぎゅっと絞られる。 「でも、正しいと思うけどな」 「……え」 「お前がきっと正しいよ。正しいだけじゃ意味ないけど、でもそういうのって大事だろ。きっと」 「瑛士くん……」 「何か一つを守りたくて、他のものを容赦なく捨てるようなやり方は、いつか全部失うんだ。絶対に」 励ましてくれているのだろうか。 妙に力の篭った彼の言葉に、万莉亜は頷いて、挫けそうな心を奮い立たせる。 「そのアルカードのアジトまでどのくらいかかるの?」 「さぁな。これがまた趣味の悪い屋敷でさ、バス乗り継いで行ったことねぇけど、多分長旅になるんじゃねぇかな。しかも、 そこにいるって保障はないけどな」 「……それでもいいよ」 こぶしを膝の上で握り締めて、万莉亜はゆっくりと深呼吸をした。 自分が捕らえられてもいい。それでも、詩織は助け出さなければならない。 あの時、同じ立場に立たされていたはずの梨佳がそうしてくれたように。 「……あれ?」 ふいに、隣の瑛士が声を上げる。 ゆっくりと停車したバスに眉をひそめ、物思いにふけっている万莉亜の肩をつついた。 「なぁ、こんなとこバス停あったか?」 「え?」 我に返った万莉亜も、顔を上げてきょろきょろと辺りを見回す。が、他の乗客たちは別段驚いている様子もなく、 戸惑っているのはどうやら万莉亜と瑛士だけのようだ。 次の瞬間、ブザーと同時に開かれたドアから現れた金髪の青年は、素早く通路を進み、 有無を言わさず瑛士の額に銃口を突きつける。万莉亜の声があと一歩遅かったら、 確実に引き金は引かれていたはずだ。そう思わせるほど彼の顔つきは険しかった。 「どういうつもりだ」 肩で息をしていたクレアが、止める万莉亜には目もくれずさらに強く銃口を押し当てれば、 瑛士は歯を食いしばりながらも相手を真っ直ぐに見上げる。 「……守屋詩織を、助けに行く」 好戦的にも見える彼の態度に腹立たしさが増したのか、引き金にかけた指に力を込める。 それをすかさず察知した万莉亜が、体ごとクレアに飛びついた。 「やめて! やめてクレアさんッ!!」 狭い車内で飛び掛られ、体勢を崩したクレアが、そのまま万莉亜ごと転倒しないためにと座席の取っ手につかまり、 瑛士に銃口を突きつけていたもう片方の手も、ぐらりと揺れる。背後で、瑛士が静かに息を吐くのを聞いて、万莉亜はそのまま、 彼と瑛士の間に立ち塞がった。 気付けば、乗客たちは焦点の合わない瞳であちこちをぼんやり眺めていて、これも彼の仕業だと知れば、また一層 悲しくなった。詩織を助けたかっただけなのに、こんなに大勢の関係のない人たちに迷惑をかけてしまうなんて。 「瑛士くんにひどいことしたら、いくらクレアさんでももう許せない。軽蔑します」 「すればいい」 いつになく厳しい態度の彼に、逆に気圧される。 すごく怒っているのだと、万莉亜は怖気づきそうになったが、負けるわけにはいかなかった。 「え、瑛士くんは、何も間違ってなんかない! クレアさんが、守屋さんを探さないから……だからっ」 「詩織は僕をおびき寄せる大事な餌だ。その価値がある限り殺されたりなんかしない」 「……っ、全然分かってない……」 喉まで出かかったたくさんの言葉を飲み込んで、それだけ言い捨てると、万莉亜はクレアの手を握り そのままバスを降りる。座席の窓から、瑛士が脱出するのを横目に見て、少しだけほっと胸を撫で下ろした。 バスの外には、久しぶりに顔を見るシリルから、ハンリエット、ルイスも揃っていて、女性陣はハラハラと事の成り行きを 見守っていたが、ルイスだけは厳しい目付きで瑛士の姿を追っていた。 外へ出ると、クレアの片腕を握ったまま、万莉亜はくるりと向き直り、言葉を模索しながら彼の 首元を睨みつけた。目を合わせる勇気が、出てこない。それでも、相手からの痛いほどの視線は感じる。 何を言っても、彼を言い負かせて反省を促す事など不可能に思えた。 万莉亜には万莉亜のやり方があるし、クレアにはクレアのやり方がある。彼を責めたいのに、それが出来ない。 クレアも同じようにただ沈黙している。 悲しい、と万莉亜は泣きたくなった。 どうして、最初から、分かり合えないと諦めてしまえる関係になってしまったのだろう。 「……帰ろう、万莉亜」 ため息と一緒に、そう切り出しのはクレアだった。 掴まれているだけだった腕をそのまま逆に掴み返し、一歩踏み出す。が、予想通り万莉亜の体はびくともしない。 詩織の件については、非難されるのはもちろん百も承知だったが、いざそうなると、じれったくて頭を抱えたくなってしまう。 そんな彼の心中を見透かしたようなタイミングで、万莉亜が掴まれていた腕を振り払った。 「私が……私があの倉庫で人質になっていたとき、ど、どんな気持ちだったか……知らないから」 「詩織と君とじゃ違うだろ」 「同じです。怖いのは同じです……私は、助けに行きます……先輩だって、私を助けに来てくれたんです」 「あれは……」 いいかけて、クレアが口をつぐんだ。 それから言い聞かせるようにして優しい口調で万莉亜の肩に触れる。 「詩織は助けに行くよ。ちゃんとね。別に見捨てたわけじゃない」 「……どうして」 「色々、準備があるんだ」 おそらくは教団を通じてヒューゴの元に囚われているはずの詩織。長引けば長引くほど、 彼女がアンジェリアと接触する可能性が高まる。そうなればいいと思っていた。けれどそれ言ってしまえば、 目の前の少女に今度こそ断罪されそうで、適当にお茶を濁す。 「約束するよ。絶対に助けるから、大人しく学園で待っていて欲しい」 「……どうして……いつも何も……私のこと、子供だと思って馬鹿にしないでください」 「そんな……、してないだろそんなこと」 ついに泣き出してしまった万莉亜に、観念してクレアはルイスに目配せする。 万莉亜の視界の外で瑛士を羽交い絞めにしていたルイスが、しぶしぶその拘束を解いてため息を吐いた。 クレアに触られまいと身じろぎする万莉亜に、車に乗るようにと優しくハンリエットとシリルが手を引く。 結局ダメなのかと、泣きながら絶望していた万莉亜が、ノロノロと歩きながら、悔し涙の零れるまぶたをこする。 瑛士を巻き込み、関係のない乗客にまで迷惑をかけただけで終わってしまった。 隣で大きなエンジン音が聞こえ、クレアの呪縛から解放されたバスがゆっくりと動き始める。 運転手は、まさか自分が居眠りでもしてしまったのだろうかと首をひねっているに違いない。そんな事を考えながら、 ふと隣のバスを見上げた。 窓際の座席に座っていた男性と、視線が交差する。 いや、そうだろうか。そんな気がしただけだ。 真っ黒なサングラスをかけている男性が、じっとこちらを見ているような気がしたけれど、気のせいに違いないと、 万莉亜はそのまま車へと乗り込んだ。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |