ヴァイオレット奇譚2 Chapter4◆「マグナマーテルの憂鬱―【6】」 「私……もういいです」 車中でも頑として口をきこうとはしなかった万莉亜が、新校舎にある自分の部屋のベッドに腰を下ろしてから、 はじめてそう切り出した。 正面で絨毯に膝をついていたクレアがその言葉に眉根を寄せる。 「もう、いいんです。この学校にも、町にも、国を出たっていいです。もう、一年待たなくていいです」 「万莉亜……」 「こんな風に誰かを巻き込むくらいなら……私、もう……」 思いつめた様子の彼女の言葉を、まさか鵜呑みには出来ず、クレアが下唇を軽く噛んだ。その言葉は、 本心から出なければ何の意味もない。 それでも、無理に言わせているのは自分かと思えば、申し訳ない気持ちと不甲斐なさが込み上げてきた。 枝たちは忠実で優秀だ。けれど、所詮は自分の切れ端。 一人で戦っているというプレッシャーは変わらない。万莉亜を護りたいと願ってしまってからは、それは一層重たく クレアにのしかかる。 それなのに、囲うように護ってみても、あまり上手くいかない。 「守屋さんを助けたら……もう学園を出ます……」 「蛍と別れることになるよ」 「……少し、別れが早くなるだけですから」 「これから先は、友人なんて気安く作れなくなる。だからこそ、この学園に悔いを残して欲しくないんだ」 「大丈夫です……」 赤くうるんだ目元でそう言う彼女を見て、クレアは今度こそ言葉を詰まらせた。 ほんの一言間違えば、取り返しのつかない結果になってしまいそうで、慎重に考えを巡らせる。 望むとおりの選択をして欲しい。それを、全力でサポートするつもりだった。そのやり方で衝突してしまっても、 上手く言いくるめる事がきっと出来るだろうと、楽観視していたのかも知れない。 それなのに万莉亜は、こんなときに限って強情だ。 そのくせ、うんざりして身を引こうともしない。 恋に溺れているふうにも見えないのに、一体何が彼女をそうさせるのだろう。いっそ捨ててくれたら楽なのかもなと思う。 その一方で、嫌われないようにと慎重に言葉を選んでいる自分もいるから滑稽だ。 「詩織は、ちゃんと助けるよ。だから、万莉亜……」 縋るような声で、うな垂れた頭を万莉亜の膝の上に乗せたクレアの乱れた金髪を見て、こちらも胸が締め付けられた。 あの時、両親の墓の前で、やっぱり彼に打ち明けるべきじゃなかった。 学園に戻りたいなんて、絶対言うべきじゃなかった。言えば、彼が叶えようと尽力してくれるのも分かっていたのに、 その裏に伴うリスクを、本当の意味で万莉亜は理解していなかった。 側にいようと決意したなら、戻りたいなどと、絶対に、言うべきではなかったのに。 でももう遅い。詩織を無事救出できたら、もうこの学園を去ろうと、万莉亜は固く決意した。 悔いはもちろん残るだろう。きっと未練もあるだろう。でも、あって当然なのだ。いつ別れたって、きっとそれらはつきまとう。だからいいのだと、 自分に言い聞かせて、納得させる。 「……瑛士くんを、責めないでくださいね」 「またそれか……」 顔を伏せたまま、これみよがしにため息を吐いて、クレアが言う。その口調があんまり嫌そうなものだから、 不安になって念を押せば、それが墓穴になり、とうとうクレアは返事もしなくなった。 「あの……本当にやめてくださいよ? 裏でひどいことしたら、私……許せません」 「君はきっと、許すよ」 「ゆ、許しません! やめてください本当にっ……!」 慌ててクレアの肩を掴み、無理やり頭を持ち上げさせる。薄目でため息を吐いていた彼に、先ほどのような強い怒りは感じられなかったが、 それでも不安が拭えずに万莉亜はうろたえた。 もしかして今この瞬間にも、瑛士には何らかの罰が与えられているのかもしれないと思えば、ついにいたたまれずベッドから立ち上がる。 そうした瞬間、正面にしゃがんでいた彼に腰を軽く押され、そのまま背後のベッドへとひっくり返った。 驚いた万莉亜が起き上がるよりも前に、上にのしかかって来たクレアがその唇を塞ぐ。 決して荒っぽい動作ではなかったが、抵抗を許さない圧迫感をひしひしと感じて、万莉亜は息をするのも忘れた。 「瑛士のためなら、本気で怒るんだね」 「あ」 何か言いかけた万莉亜の言葉を遮るようにして、再び唇が塞がれる。 子供同士で交わすような無邪気なものから、頭の天辺まで痺れるような深いものまで、教えてくれたのはクレアだったが、 しかしどんなキスだって、こんな際どい体勢で交わすのは初めてだった。 途中からさすがの万莉亜も気付き始めていたが、多分彼は、意図的に避けていたのだと思う。 それを知っていたから、この急転直下の展開に、戸惑いを隠せない。 まさか突き飛ばすわけにもいかず、かといってこのまま流されるには勇気が足りず、どうしようどうしようと握ったこぶしに 力を入れる。 「……あ、あのっ」 もう一度唇が離れた隙に、すかさずそう声を上げる。 自分でも恥ずかしくなるほどに上ずった声。それを聞いたクレアが、「冗談だよ」と 笑ってくれると、信じていた。けれど今、お構い無しに首筋をつたう彼の唇に、本能が大音量で 警報を鳴らし始める。 いつもとは違う。 でもどうして突然。 ぐるぐると混乱していると、冷えた指先を腹部に感じ、ぞくりと総毛立つ。 詩織を救出に向かうつもりだったから、身軽なようにと選んだ薄手のブラウスが今こんなにも頼りない。長い指が 器用にボタンを外し、あらわになった下着姿の胸元に、熱の篭った唇が這う。 ついに卒倒しそうになった万莉亜が、涙声で何かを呟こうとしたその時、小さく二回、ノックの音が鳴った。 極度の緊張から荒い呼吸を繰り返し、上下する万莉亜の胸の上で、ピタリとクレアが動きを止める。彼は無言のまま 万莉亜を見上げ、じっとその黒い瞳の奥を探る。 しばらくして、小さく息を吐き、体を起こしてベッドから降り、クレアが扉へ向かった。 硬直して動けないまま、それでも、今しかないと悟った万莉亜は、震える手で開いた胸元のシャツをかきあわせ、 今度はその格好で固まる。 想像を絶する生々しさに、とてもじゃないが思考が追いつかなかった。 ――……子ども扱いしないでなんて…… てんで子供のくせに、と自分が情けなくなってくる。 仮にも恋人を名乗っておいて、この体たらくだ。子ども扱いされたって文句は言えない。 こうなる前に、たくさん考えなくてはいけない事があったはずだ。 二人のこと、二人の未来のこと、自分の将来のこと。 学園へ戻るなどと、お気楽なことを言えたのもひとえに 自分の刹那主義に満足していたから。目を背けていたのは万莉亜だ。今しか見ようとしなかった自分に、クレアは付き合ってくれていた。 だけど本当は、それではいけない。 自分ではない誰かと、共に生きていくなら、それでは無理だ。 ――……そっか……だから だから彼は、何も言わない。言えない。 赤ん坊相手に、将来の具体的な段取りを話し合うのは馬鹿馬鹿しいだろう。それならば、希望だけ聞いたほうが、いくらかマシなやり方だ。 自分はきっと、変わらなきゃいけない。それも、早急に。そう強く痛感させられた。 ****** 「すみません……」 本人よりも沈んだ声で、ルイスがこうべを垂れる。 ノックだけに留めておいたほうがいいかな、と何かを察したその直感を信じて、ノックもやめればよかったのだ。 突然の現れたルイスを、天の助けとばかりに歓迎し、一目散に部屋を後にしていった万莉亜の衣服が盛大に乱れているのを見て、 間の悪い自分を呪った。 「いいよ。合意じゃなかったから」 自虐してベッドに座り込んだクレアを見て、ルイスは苦笑した。 とにかく、もうノックと共にドアを開くような悪癖は封印しようと固く誓う。梨佳のときは、 慣れからか、その辺りのエチケットが遠慮のない開放的なものになっていたが、シャイな万莉亜ではそうはいくまい。気を引き締めなおす必要があるな と一人ぶつぶつ呟いて、グラスに水を注ぐ。それをクレアに手渡しながら、ヴェラからの伝言を 読み上げた。 ルイスの話しを聞き終えると、今度こそがっくりと肩を落としてクレアがため息を零す。 「……そうか……会ってないか」 「はい。アルカードの例の屋敷に軟禁されたままですね」 「なら、そろそろ潮時かな」 「あの……」 言いかけて口をつぐんだルイスに、クレアが片方の眉を持ち上げる。 「これは私の推測ですが」 「どうぞ」 「……もしかするとヒューゴは、アンジェリアを見失っているんじゃないでしょうか」 「ん? 別々に動いていると?」 「はい。ここでのあの一件、吹き飛んだアンジェリアの再生は僅か五秒にも満たないほどでした。私達もすぐに退散したので、ヒューゴが 何時間かけて再生し終えたのかは不明ですが、でも、アンジェリアが彼の再生をじっと待つでしょうか」 「あれは支えてくれる男がいないと生きていけない女だぞ。執念深く何十時間だって待つだろうよ」 「……でも、あの時彼女は、クレアの肉をかき集めて食べきった。……もしかすると、やはり今も、はめられたのを逆手にとって、 殺したつもりでいるんじゃないでしょうか」 「……」 ルイスの推測は、クレアだって縋りたい希望だ。 「食べきるのにどれほどの時間を要したかは分かりません。ですがもし、彼女が食べきる前にヒューゴが 再生を終えていなかったとすれば、彼が起き上がったとき、その場からすでにアンジェリアの姿が消えていたら、 ……彼が余計な入れ知恵を彼女に吹き込めなかったとしたら……」 「……希望的観測すぎやしないか?」 「確かに。ですが、アンジェリアは物事を道理で考える女性ではありません。ヒューゴがついていなければ、 彼女が真実に辿りつくのは難しいとは思いませんか」 「…………」 体の一部をあらかじめ切り落とし別の場所へ隠しておいて、本体を滅ぼしてからテレポートのように 移動するあの策は、同族の中ではわりとポピュラーな方法だ。誰かから見聞きしたり、己で気付いたものは多いだろう。 特に、クレアやリンのように同族を狩っていたものには、常識だったと言ってもいい。 しかしこれが第三世代や第四世代ではなく、第二世代となるとどうだろう。 濃い血を受け継いだ万能に近い彼らが、そんな小細工をよく見知っているだろうか。実践する機会があるのだろうか。 分からない。世代間には深い溝がある。第二世代の生体などクレアにだって謎だらけだ。が、一つだけ、 かつての生活で思い知った事実、それだけは分かる。 アンジェリアは、あれはひどく愚鈍なときと、ひどく鋭いときがきっぱり分かれている。 そして感情が高ぶったそのとき、彼女は大抵、哀れなほどに愚かな少女に戻るのだ。 目を閉じれば、小さな子供のように嗚咽し、涙を流しながらクレアの肉を喰らうアンジェリアの姿が浮かんだ。 これは、願望だろうか。きっとそうに違いない。けれど。 「クレアのマグナを、アンジェリアに捧げないわけがない。どうしても、彼らは今別々に行動しているような 気がしてならないんです。あのアルカードにしても、人間を巻き込むようなやり方を、アンジェリアは嫌悪するはず。それなのに、 ヒューゴはあの団体と繋がっている。それどころか事実上のトップだ」 「……それで?」 「ヒューゴを潰すべきです。そうすれば、あなたが生存している事を知っているのは香港のリンと瑛士、妹のヴェラ、そして アルカードの新世代だけになります。念のためこれら危険分子もまとめて一掃すべきですね。アンジェリアが真実に気付いていない、今のうちに」 「お前ね、リン相手じゃ僕が喰われるだろ。嫌だよあんな化け物と」 「もちろん、リンだけは生かします。ヒューゴを喰らうはずの人物が必要ですから、リンなら適任です。 アンジェリアだって疑わない。幸いリンは同族食いとして名が通ってる」 躊躇いなく淡々と語るルイスを見上げながら、クレアは腑に落ちない思いを抱えていた。 「お前のがよっぽど冷血だ」 「……そうでしょうか」 「それなのに牙を向かれるのはいつだって僕。納得いかない」 「本気ではないと思いますが」 「…………」 「あの、クレア、それで」 「……まぁとりあえずは詩織を取り戻してからだな。しばらくはそれに集中しよう」 消極的なクレアに、ルイスはいくらか不満そうな顔で頷く。しかし、それならそれでさっさと詩織を取り戻せばいい話だ。 手際よく進めて、クレアに対ヒューゴの話を再度持ちかければいい。 「で、あの子達は?」 「ああ、瑛士を鞭打ちの刑にするだかで地下に……二人で下りていきましたが」 「……あっそ」 「ジョーク玩具の鞭でしたけどね」 どこか苦々しい口調で言うルイスをクレアが鼻で笑う。 「今度ブルウィップでも買ってやろう」 本革を編みこんだ牛追いの鞭で叩きのめせば、いくらか気も晴れるだろう。 「少し休むよ」 そう言ってさりげなくルイスを追い払い、重たくなってきたまぶたをこする。シリル辺りが、またはしゃいでいるのかも知れない。 体を引き摺るようにバスルームに向かい、衣服を脱ぎ捨て、少し冷たいくらいのシャワーを浴びる。 先ほどから、心臓が早鐘を打っていたのを、ルイスは気付いただろうか。指先が、かすかに震えだす。 正面にある縦長の鏡に映った自分は、今にも倒れそうなほどに情けない顔をしている。 気分が悪くて、吐きそうだ。 鏡の中に映る姿は、あの女に深く深く愛されていたあの時の姿のまま。 それでも、変わってしまったものがきっとあるのだろう。だから、内面までは映らない鏡の中の男に嫉妬めいた感情を覚える。 嫌だ。執着している。認めたくはない。 ルイスの説は希望的な観測だ。アンジェリアが、クレアの死を簡単に認めるわけがない。それでもいい。それでよかった。 万莉亜だけが無事死ねたなら、それで良かった。自分自身のことは半ば諦めていたのだろう。 だってアンジェリアが、認めるはずがない。 自分の消えた世界で、あの女が、生きていられるはずがない。そんなことは、許せない。 ――……何やってるんだ……これじゃあ…… 追っているのがどちらかなのかも分からない。 「……万莉亜」 心に言い聞かせるように呟いた。 可愛い女性だ。愛おしいと思う。側においておきたいと思う。彼女が振り返り、自分に何か楽しい事を伝えようと 世話しなく身振り手振りで語る姿が本当に好きだ。 幼い頃にアンジェリアと出会ってしまい、淡いときめきなどはすっとばして女を知ったクレアにとって、 幼い初恋のようなやり取りは少しじれったい。それでも、欲する感情が募れば募るほど、死んでいた感情が息を吹き返すのを感じて、 満足していたはずだ。だから今すぐにでも愛していると言いたいのに、素直には出てこない。今言ってしまえばきっと偽りになる。 そんな風に傷つけたくはない。いや、傷一つつけたくない。 それなのに、傷だらけにしてもちっとも心が痛まないあの過去の女が、今世界中で一人ぼっち、 ヒューゴとも決別し、自分を失ったと思い込みどこかの地を彷徨っていると思えば、駆け寄って抱きしめたくなる。 愛していると、堪えていた言葉は零れるだろう。過去の過ぎ去った幻想が、きっとそうさせてしまう。 どうにかしなければいけない。分かっているけど、どうにも出来ないと鏡の中の男が涙を浮かべる。 ――……万莉亜……ごめんね…… 不確かな絆と、すれ違いがまどろっこしくて、抱いてしまおうかと思った。 万莉亜が遠ざかれば、過去が色を濃くして心に居座る。不安になる。 だからもっと、近づいて欲しかった。 不確かな絆と、すれ違いがまどろっこしくて、それが恐ろしくて、……愛にすげかえた。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |