ヴァイオレット奇譚2 Chapter5◆「彷徨う恋の代償―【1】」 昔、身を削るような恋をした。 「今夜は満月だ」 墨色の髪をした男がふいに呟いた言葉に、詩織はほんの少し驚いた。 月の満ち欠けに、興味を示すような男には見えなかったから、多分そのせいだろう。 私設団体アルカードの本拠地である屋敷に捕らわれて三日目の夜。 彼は詩織の監禁されていた部屋を訪れると、強引に腕を引き、大広間から続くこのバルコニーへと彼女を連れてきた。 ここにこうして、どのくらい経つのだろうか。 冷たい夜風に体は冷えきり、食事もろくに取っていないせいかまっすぐ立っているのが困難になってきた。 「……座っても良いですか」 生気のない人形のふりもやがて限界が訪れ、そうたずねると、男は鼻で笑い「好きにしろ」と 告げる。ほっと胸をなで下ろし、詩織は冷えたコンクリートの上に膝をついた。それから、 少し離れた場所で手すりにもたれながら空を見上げている男を、そっと盗み見る。 大柄のがっちりとした男性で、意志の強そうな太い眉と切れ長の瞳をした彼の姿は、なぜかクレアを思い出させるが、 理由は分からない。 「……お前も、愚かな女だな」 独り言のように呟かれた彼の言葉に、詩織は慌てて目線を逸らした。盗み見ていたことを、相手に悟られてしまったのだろうか。 唐突に顔を向けた彼は、その冷たいバイオレットの瞳を細めて言う。 「いずれ散るその命をクレアに捧げ、それでお前の手元には何が残る」 「……」 「あいつはすぐに次のマグナを見つけるだろう。前回の娘が、無駄死にしたように。歴代のマグナが、 無下に忘れ去られてきたように」 ――無駄死に? 彼の言葉が真実かどうか見極める術を詩織は持たない。 クレアは、マグナを守ると言った。自分を守ってくれると。 その言葉にあぐらをかいて楽観視していたわけではないが、死の直面の立たされているとも思っていなかった詩織は、 突然突きつけられた男な言葉に、呼吸が苦しくなるのを感じる。 不安が募る。 「……クレアさんは、私を守ってくれるもの」 己を奮い立たせるようにして拳を握る少女を、憐れむような瞳で男が見下ろしていた。 「あの男は、残酷だ。俺はそれをよく知っている。それでもいいのなら、そのまま耳を塞いで 愛を貫け。……耳を塞ぐのは、得意だろう?」 「…………」 小馬鹿にしたような物言いだった。 彼は、日々の生活から逃げだし、怪しい団体に自ら飛び込み、挙げ句に名前のないモンスターの生け贄となることを選んだ この少女を、彼女がひた隠しにしているその本質を、きっと見抜いている。 お前はただの臆病者だと、冷たい視線が少女をなじる。 「人の世とは、こちらが切り捨てるものではない。いつだって、切り捨てられるものだ」 「……私は」 「そう思わないか?」 意地悪く微笑んだ男の視線が、自分を捕らえていないことに気づいた詩織が、 ハッと身構えて背後に振り返る。 夜の闇に紛れて、いつの間にか二人の背後に立っていた青年は、ただ両の瞳からするどい光彩を放ち、 音もなくその場に佇んでいた。 ****** あなたが、その男の名を呼ぶたびに、この胸は引き裂かれそうに痛む。 「……クレア」 静かに名を紡ぐ。呪詛のように、幾度も夢の中で呟いた名前。 闇を纏ってなおその鮮やかな輝きを見せる金色の髪が、冷たい夜風に吹かれてなびく。 ただそれだけの事が、まるで神の祝福のように映ってしまう。 それは、永すぎた怨念が見せる卑屈な幻なのだろうか。 「お前にしては、随分悠長な対応だったな。大切なマグナが、そこでしびれを切らせているぞ」 そう言ってちらりと詩織に目線をやれば、相手は薄いバイオレットの瞳を細め、「黙れ」と低く唸る。 めずらしく、苛立っている様子だ。 「ヒューゴ。僕は、お前とのこの意味のないイタチごっこに心底嫌気がさしている」 「…………」 「手を引いて今すぐにこの地を去れ」 「……それは、取り引きか?」 嘲笑って、一歩距離を詰める。ぼやけていた輪郭が鮮明になるにつれ、 不思議と恐怖感は薄れ、懐かしさすらこみ上げる。これが、血の共鳴かなと思えば、 今それに逆らう己はやはり異端なのだろう。 裏切り者の第三世代。その名に恥じぬよう、目の前の同胞を憎みきって、この世から消し去ってやる。 たとえその先で手にするはずのものが、ただの幻想だったとしても。 先に地面を蹴り上げたのは、ヒューゴだった。 「……っクレアさん……!」 咄嗟に、詩織が悲鳴を上げる。 反撃のためにクレアが駆け出そうとしたその瞬間だった。 「詩織!」 へたり込んで二人を見守っていたはずの彼女が今、バルコニーの手すりの向こう側に立っている。 些細なそよ風ですら、今は彼女の命を奪う凶器になってしまいそうな不安定さで。 「……助け、て……足、……足がっ……!」 自分の意志などお構いなしに勝手に動き出した体は、ジリジリと地面の際へ移動を続ける。 屋敷の三階にあるバルコニーの下は、雑木林だったはずだ。少なくとも断崖絶壁ではなかったのが唯一の救いだが、 しかしこの夜の闇で、見下ろす景色は底なしの谷底のようにも見える。 落下して、無事でいられるのだろうか。 考えただけで胃は縮み上がり、こみ上げた涙に視界は滲む。 「ヒューゴッ!」 怒気をはらんだ声色で相手の襟元を掴み上げれば、何を今更、とヒューゴがせせら笑った。 「こうなる危険性をお前は十二分に理解していたはずだ。それを、枝もなしに単身乗り込んでくるとは、 よほどあの学園に守りたいものがあると見える」 「……今すぐに詩織を解放しろ」 「あの学園に、お前は何を隠している。何を守っている」 「ヒューゴ。お前を食らうことは、僕にとっては造作もないことだ。その上で、お前のせこい遣り口にわざわざ 付き合ってやっている恩を、仇で返すな」 「セロか? 第一世代か? それとも……」 言いかけた次の瞬間、ヒューゴが声を失う。 咄嗟に向けた視線の先には、正面から伸びてきた白い腕。それが、己の 喉を通り道に襟足を掴む。気づいたときには、肉のちぎれる音と共にクレアがそれを引き抜き、 一握り分の肉を奪われたヒューゴが、むせ返ることも叶わずにその場に膝をついた。 その隙に、クレアが詩織の元へと駆け出す。 「詩織!」 「クレアさん……っ!」 予想されていたことだが、自分が駆け出した瞬間、詩織は驚愕の表情と共にその 身を宙に投げ出し、間一髪で腕を掴んだはものの、彼女の体はそれに激しい抵抗を始めた。 「助けてっ! たすけっ……」 叫びながら、詩織は己を引き上げようとするクレアの腕を振り払おうと抗う。 「詩織! 君の体が、君の意志に抗うはずがない。騙されちゃダメだ……っ」 「嫌、落ちるっ!! 離さないで……っ、いやぁっ……!!」 少しずつ詩織の腕が滑り落ち、クレアが歯を食いしばる。 先ほど咄嗟に伸ばした腕は、利き腕だった。ヒューゴの喉元に風穴を開けた、赤い血液の塗りつけられたこの手では、 力を込めるほどに少女を逃がしてしまい上手くいかない。 「くそっ……」 血のぬめりで少しずつ、しかし確実にずり下がっていく詩織。 もう片方の腕をいくら伸ばしても、彼女の体はそれを断固として拒否し、激しく宙で暴れる。 背後で、こちらに忍び寄る足音が響いた。 ――……早いな 落胆か、感心か、そのどちらもか。うんざりしながら 視線を背後に回せば、にやにやと高みの見物を始めていたヒューゴが ゆったりとした足取りでこちらに近づく。 その化け物が舌なめずりをするのを見て、クレアは詩織を掴む腕に力を込めた。 「さよならだ、クレア。同族食いのお前に、相応しい末路を俺がくれてやる」 地獄の底から響いてきたようなおぞましい声が、詩織の耳にも届いた。 そして次の瞬間聞こえた銃声と共に、彼女の体が宙に投げ出される。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |