ヴァイオレット奇譚2 Chapter5◆「彷徨う恋の代償―【2】」 ほんの一瞬。けれど、永遠のようにも感じられた。 風は身を引きちぎる刃となり、裂いた空気が断末魔のような悲鳴を上げて鼓膜を痛めつけた。 それでも、全身を覆うようにして抱きしめる腕の力強さに、全てを託して目を閉じた。 信じたいと、思った。 ****** 静かな森に激しい落下音を立てて、二人の体が地面に落下する。 どこかとても近くで、骨が砕けたような鈍い音が聞こえた。 「大丈夫?」 頭の上から囁かれた声に、詩織は体中の痛みも忘れて顔を上げた。 思っていたよりもずっと近くに彼の瞳はあって、息を呑む。 ぼけっとしている詩織を視線で確認し、クレアが微笑む。到底笑ってはいられない状況で、 どうにか捻り出しただけの投げやりな笑顔だったが、それでもそんな彼の気遣いで、詩織はやっと言葉を取り戻すことが出来た。 「あ、あの……私たち……?」 「万策尽きて飛び降りたんだ。怪我はないよね?」 そう言われて、初めて足首がじんじんと痛むことに気付いたが、奇跡的にもそれ以外はこれといって異常は見られなかった。 落ちたときのことは覚えている。 空中でとても強い力に体を引かれ、そこからの詩織の視界は塞がれてしまったけれど、ほのかに香る甘い匂いに包まれて、 詩織はそのままクレアに身を委ねた。妙な安心感に包まれて、不安などカケラも感じられなかった。 「クレアさ……」 お礼を言おうと、そう口を開いた瞬間、突然暗い雑木林に座り込んでいた二人の男女を目に痛いほどのライトが照らす。 びくりと跳ねた心臓に冷や汗を流しながら振り返れば、そこには一台の乗用車が待機するようにして二人を見つめていた。 この獣道をまさかドライブでもしていたのだろうか。草木や泥で車体はひどく薄汚れている。 「念のため用意してたんだ。まっすぐ学園に向かうように指示してあるから」 サラリと告げられたクレアの言葉に詩織は全てを察し、自分より負傷しているに違いないクレアの腕を己の方にまわして 立ち上がろうとする。が、彼は首を振って彼女だけを立たせた。 「で、でも……あのヒューゴって人がまだ」 「大丈夫だから」 ライトに煌々と照らされて、初めてはっきりと見えた彼の体は、とても大丈夫そうには見えなかった。 細かい枝は好き勝手に彼の顔を切り傷だらけにしていたし、片足はどういうわけかひどく出血している。 それを見た詩織は初めて、落下の瞬間に聞いた銃声を思い出した。 ――撃たれたんだ……っ! 「大丈夫」 みるみる青ざめていく少女に念を押すように言って、クレアが着ていた黒いロングコートを脱ぎ捨てる。 雑木林に突っ込んだ際、口に入り込んだ葉や泥を唾と一緒に吐き出して、コートの裾で口元をぬぐった。 それでも妙に顔がべとつく気がして指で顎をなぞると、べっとりした赤い血が指先を染める。 枝で切ったのか、と納得したと同時に、なるほど顔中血だらけかと、目の前で真っ青になっている少女に合点がいき、 苦笑する。 「そう見えないかもしれないけど、僕は本当に大丈夫だから、詩織は先に学園に戻っていて」 「嫌ですっ……」 プルプルと首を振って少女がクレアのシャツを掴む。 「まずは怪我を治しましょうっ……こんな怪我をしたままヒューゴと戦うなんて」 「怪我はすぐに治る。でもね、君がさっきのようにまたヒューゴの支配下に置かれてしまうと、僕は手も足も出せない。分かるだろ? すごくやりづらいんだ」 ぐっと少女が言葉を飲み込んで俯く。 足手まといは承知で、それでもそばにいたい。それが叶わないのなら、せめて一緒に逃げて欲しい。でも、そのどちらも 叶わないことを詩織は知っていた。クレアが、運転手に目配せをすると、後ろで車のドアが開く音がした。 「行って」 「……」 「詩織」 「……はい」 観念したように頷いてすごすごと車の後部座席へ乗り込む。 よく見ればそれは町中でよく見かける名前のタクシーで、安堵感からか乗り込んだ瞬間数日間にわたる監禁生活の 疲れがどっと襲う。それでも、視線だけはクレアに向け、中々立ち上がらない青年を不安一杯に見守る。 ――クレアさん…… 大丈夫なのだろうか。いや、きっと大丈夫に違いない。彼が強いことは詩織だって知っている。 それでも、胸はむやみにざわつき、胃が締め付けられるような恐怖感が消えない。 理由は分かっている。彼はもう、自分にとって特別だからだ。だから怖い。 ――無事に……帰ってきて…… 一分、一秒でも早く。 強く祈って、詩織は膝の上に小さな拳を握る。 これが恋でも、単なる執着でも、もうどっちだっていい。 ただそばにいたいだけ。 そう思える人と、生まれて初めて出会ってしまった。 ****** 遠ざかっていく白いタクシーを小さくなるまで見つめて、それが消えるとやっとの事で クレアは漆黒の闇夜を仰いで息を吐いた。 詩織さえ連れ出してしまえば、あとはどうにでもなる。自分がこの場に残れば、 本来クレアが目的である相手は無意味に詩織を追ったりはしないだろう。ヒューゴは上手に撒けたらそれでいいし、 見つかったら相手をしてやればいい。 とりあえずは、任務完了だ。 大木に寄りかかりながら、どうやら折れてしまったらしいあばら骨をさすり耳を澄ます。 乱暴な足音がこちらに忍び寄ってきているけれど、身を隠す気にはなれなかった。単に面倒だったのかもしれない。そんな 自分の姿を見て、現れたヒューゴが不服そうに顔をゆがめた。 余裕ぶっていると思われたに違いないが、実際はそうではない。 枝を連れてこなかったことに、理由はない。一人で、解決出来ると思ったし、事実そうなった。 ……そうだろうか? 今この場から逃げなかったことにも、単身乗り込んできたことにも、きっときちんとした理由がある。 こんな事をたずねるために、こうなるように仕向けた。ひどい裏切りだ。 「アンジェリアは、どこにいる」 茂みから現れた天敵に向かって、気がつけばそうたずねていた。 静かに問われたその言葉に、ヒューゴは一瞬瞳を揺らし、それから眉をつり上げてクレアを睨み付ける。 「アンジェリアと、はぐれたんだろう?」 「……貴様には関係ないだろう。あれは俺の女だ」 ありったけの怒りを込めて吐き捨てるように告げれば、相手は素直に頷き、そのまま撃たれた足に視線を落とす。 「もちろん。ただ、それならそれで、そばにいてやるべきだろ」 「アンジェリアを追い詰めた張本人が、俺にアドバイスか? 俺から彼女を奪ったのは、他でもない貴様だろうがっ!」 怒りに打ち震えながらヒューゴがクレアめがけて拳を振り下ろす。それをもろに食らいながら、それでも 視線だけは刺すようにヒューゴを捕らえていた。 その瞳は、恐ろしいほどに冷徹で、思わずヒューゴが一歩距離を取る。 クレアの瞳に、はっきりとした殺意を感じ取ったのは初めてだった。 「いいオモチャを手に入れたんだと安心していたけれど……。飽きてしまったのなら、もう用済みだ。 僕がお前を生かしておく理由も、無くなってしまった」 「……っ」 「大事なマグナに散々ちょっかいを出した借りを返させて貰うよ」 「……上等だっ!」 そう牙を剥いて、ヒューゴが目の前の男に飛びかかった。 静かな闇夜の森で、二匹の獣が、生き残りをかけた喰らい合いを始める。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |