ヴァイオレット奇譚2

Chapter5◆「彷徨う恋の代償―【3】」




 生まれてきた理由と、生きていくことの意味と、誰かを愛する価値を教えてくれた人だった。
 あなたでないのなら、多分もう、満たされる日は来ない。だから

 出会えて良かったとも、思わない。



******



 詩織が学園に戻ったのは、午後十時半を少しまわった頃。
 新校舎五階で枝たちと共にクレアと詩織の帰りを待っていた万莉亜は、知らせを聞いて 同じフロアにある彼女の部屋へと飛び込んだ。
 ベッドに横になりながら、ルイスの運んできたスープを少しずつ口に運んでいた詩織は、 顔色こそ悪いものの、これといった外傷もなく、ほっと胸をなで下ろしながら万莉亜は駆け寄る。
「守屋さん、無事で良かった……!」
「……先輩」
 万莉亜の顔を見た途端、詩織はハッと我に返ったような表情を見せ、それから すぐに顔を背ける。
 先日、万莉亜に宣戦布告のようなものをしたことを思い出し居たたまれなくなっただけの彼女だったが、 万莉亜はそんな詩織の様子を見て、気分が優れないのだと納得し、色々出かかっていた言葉たちを飲み込んで ベッドから一歩下がる。何日も監禁されていたのだ。今は休ませてあげなくては。
「たっぷり休まないとね。私、こっちにいるから、何か寮から持ってきて欲しいものとかあったら、 何でも言ってね」
「……はい」
 多分、彼女は何も頼んでは来ないのだろうと知りつつも、万莉亜は力強く頷いて部屋を後にする。 ルイスがついているから、心配には及ばないだろう。
――……でも
「クレアは?」
 万莉亜の横でぽかんと事の成り行きを眺めていたシリルが、辺りを見回して不思議そうに尋ねた。
「すぐに来るわよ。操られたらやっかいだから、詩織だけ先によこしたんでしょ。さ、詩織も戻ったことだし、 私たちはゆっくりお茶でも飲みましょうか」
 何てこと無い風にそう言ってハンリエットがフロアにあるラウンジのソファに万莉亜を座らせる。
 が、さっきまで一緒になってソワソワと帰りを待っていたのだ。そこへ詩織一人だけ帰宅したとなれば、 クレアの行方がますます気になり、不安が増す。ハンリエットだって、同じはず。
 今回の救出は作戦らしい作戦も立てずクレアが単独でフラリと出て行ってしまったと聞いた。 何も聞かされていない枝たちはさぞや戸惑っているに違いないが、分かっていて万莉亜は、 気付かないふりをした。不安を煽ってもしょうがない。今自分たちに出来ることと言えば、せいぜい無事を祈ることくらいだ。

「……どうするの万莉亜。本当に、学園を出て行くつもり?」
 暖かい紅茶を持って帰ってきたハンリエットが、神妙に切り出す。
 万莉亜は、大きな窓から見える夜空に視線を向けて、そのままコクリと頷いた。
 もうこんな事はうんざりだった。だから、詩織を救出できた暁には、すぐにでも日本を発つとクレアに宣言した。 クレアがどう受け止めたかは知らないが、万莉亜は何もやけっぱちでそう言ったのではない。腹を括ったのだ。
 何の罪もない詩織が巻き込まれて痛感した。
 危険は隣り合わせだ。
 学園の友人に未練はあるが、このままではその大事な友人たちにまで巻き込みかねない。そればかりか、 いつ入院中の祖母に魔の手が忍び寄るとも分からない。とても、安穏と学園生活を謳歌出来る状態ではないのだ。
「決めたんです。やっぱりそれが、一番良いと思うから」
「……そう。そうね。この国には、少し数が集まりすぎているものね」
「はい」
「とんでもない人生になっちゃうわよ。後悔しない?」
 その質問に、万莉亜は苦笑した。分からない。でも、不思議と躊躇いはない。 クレアについて行くと決めた。無茶苦茶な人生でも、隣にクレアが居てくれたら、枝たちのみんなや、瑛士がいてくれたら。
「きっと大丈夫です」
 祈るように、呟いた。
――……だからお願い……早く帰ってきて……
 心の中で、名前を呼ぶ。届かないと知っていても、なぜかそうせずにはいられなかった。



******



 二時間ほどベッドでウトウトした後、バタバタと慌ただしい足音で詩織は目を覚ました。
 今すぐにでも眠りに落ちようとする肉体に反してピンと気を張って耳を澄ましていたから、気付くのは容易だった。
――帰ってきたんだ……!
 急いでベッドから降り、薄手の寝間着にガウン一枚引っかけて部屋の扉を開ける。
 螺旋階段の方から、枝たちの声が順に聞こえてくるが、肝心のクレアの声は聞こえない。
「…………っ」
 部屋でじっとしているべきだ。いずれ彼は顔を見せに来てくれる。そう分かっているのに、 堪えきれずに部屋を後にする。
 そのまま足早にフロアを歩いていると、ラウンジにあるL字型のソファに、誰かが横たわっているのが見えた。 ルイスが手厚く介抱しているところから見て、クレアに違いない。
 気がつけば、走り出していた。

「クレアさ……」
 しかし、すぐそばまで駆け寄って、詩織は絶句する。
 引き裂かれた衣服から露わになった剥き出しの彼の上半身は、脇腹の肉が大きく削がれ、首筋から肩口までびっしりと獰猛な獣の歯形のようなものが 幾重にも重なっている。左腕はちょうど二の腕の部分がざっくりと咬みちぎられ白い骨が露わになっていたし、右腕は手首から先が見当たらない という有様。最早無傷の箇所を探す方が困難な状態だ。
 それでも、詩織が一番衝撃を受けたのは、彼のえぐり取られた右の目だった。
 とても直視出来ないほどに痛々しい姿。詩織も含め、皆冷静であらねばと努めてはいたが、唯一パニックを起こし ギャンギャンと泣きわめくシリルの声に、張り詰めた糸が切れてしまいそうだ。
「ハンリエット。シリルの興奮が続くとクレアの体に障ります」
「分かったわ」
 言われてハンリエットがシリルを彼女の寝室へ運ぶ。
 幼いながらに、不安に打ち震えていたのだろう。やっと帰ってきた父親が思っていたよりも悲惨な姿だったので、 驚いてパニックになっただけだ、とルイスがフォローする。
「傷は数日も経てば癒えます。ご心配には及びません」
「……でも」
「不死ですから」
「…………」
 心配もするな、という意味だろうか。痛みが、ないわけではないのに。
 仕方なくルイスが手早く施す応急処置、といっても、グロテスクな傷口をガーゼで隠すだけの作業を 黙って見守る。
 しばらくすると、おもむろに残った左目を開いたクレアが、手当をするルイスとその後ろに立つ詩織を交互に見やった。
「痛みますか?」
 クレアが頷くと、ルイスは救急セットから注射器を取り出し、痛み止めと思われる薬剤を注入する。 それからさらに数分。一つ深呼吸をして、クレアが上半身を起こした。その背中を、ルイスが慌てて支える。
「クレア?」
「……部屋に戻る」
 無謀にも立ち上がり、歩き出そうとしたクレアの体が床に崩れ落ちる。支えていたルイスも同時に膝をついた。
「まだ歩けません。もうしばらくここで回復を待ちましょう」
「ダメだ。部屋に戻らないと……」
 彼が何を焦っているのか詩織には見当もつかなかったが、片足くらいの代わりにはなるだろうと、補助のため クレアに腕を伸ばす。その時、微かに息を呑む誰かの気配を感じて振り返れば、そこには今にも卒倒しそうな表情の万莉亜が立っていた。
「…………」
 言葉を失ったまま血まみれのクレアを凝視した後、立ちくらみのようにフラリとよろけた彼女を、咄嗟に支えようと クレアが身を乗り出す。そんなクレアを支えようと、無理な体勢で体をひねったルイスが腕を伸ばす。結局三人が三人とも バランスを崩し、床に倒れ込んだ。が、クレアの左腕はかろうじて万莉亜の肩を支え、彼はそのまま泣きそうな顔をしている 万莉亜の手を握った。
「見た目は派手だけど、大したことはないよ。すぐに治るから」
「……っ」
 片方しかない紫の瞳を見て、万莉亜が涙を零す。「もう嫌だ」と涙声で繰り返す彼女の前で、困り果てたように クレアは俯き、時折チラリと万莉亜の表情を伺い見る。悪戯がばれてしまった子供のような仕草は、彼もまた ちっぽけな人間の青年でしかないことを痛感させられる。
 不死のヴァンパイアも、いにしえの化け物も、恋する相手には弱いのだ。
 ひどく馬鹿馬鹿しくて、とても微笑ましい。そんな彼の一面は、けれど全て万莉亜のものだ。
 分かっていたはずだった。けれど、本当はちっとも分かっていなかったのだと、たった今思い知らされてしまった。



******



「いいから寝ていてくださいっ!」
 ほとんど怒声になっていた万莉亜の声が、理事長室に響き渡る。
 血まみれになったクレアの衣服を抱えてランドリールームに向かっていた万莉亜の後を性懲りもなく血まみれの本人が 追ってくるものだから、ついぶち切れてしまったのだ。
「大人しくしていないと治りませんよ! 不死なんて、分からないじゃないですかそんなの! 限界があるかもしれないんだから」
「そうなんだよ。不死の証明って難しいんだよね」
「茶化さないで寝て!」
「…………」
 怒鳴りつける万莉亜の瞳からまたボロボロと大粒の涙が零れる。
 慌てたクレアが口をつぐんでも、時すでに遅く、彼女は血まみれの衣服で顔を覆い泣き出した。
「……もう、嫌なんです。本当に嫌なんですっ……」
「万莉亜……でも、もう少しで卒業だろ? せっかく……」
「耐えられませんっ!」
「…………」
 勢いに圧倒されてクレアが口をつぐむ。
 肩で息をしていた万莉亜は、胸の上で衣服をぎゅっと掴み、それから先ほどの威勢からは唐突すぎるほどの しぼんだ声で「ごめんなさい」と呟いた。
「……全部、私の我が儘だって分かってるんです。でも私……怖いんです。こんなに怖いって、知らなかったから」
「それは、僕の力不足だ。……でもっ」
 ぶるぶると首を振って万莉亜が顔を上げる。
「違うんです。クレアさんのおかげで、私は誰より安全です。でも……それじゃ怖いんです。 周りの人が傷つくのを、黙って見ているなんて、私出来ません」
「詩織のこと? だったらもう、マグナは作らないって約束を……」
「クレアさんにも安全でいて欲しいんです。シリルや、ハンリエットやルイスさんも……」
 瑛士も、と万莉亜は心の中で付け足す。
「もういいんです。我慢してるんじゃないんです。早くここを出ましょう、クレアさん」
 じっと見つめ懇願するように名前を呼ぶ万莉亜から、クレアは視線を逸らして黙り込む。 しばらくは相手の返事を待っていた万莉亜だったが、返答に困っている様子のクレアを見て「とりあえず寝てください」 と告げランドリールームへ向かった。

――……どうして、ダメなんだろう
 廊下を足早に進みながら、万莉亜は少し強情にも思えてきたクレアの態度に首をひねる。
 本来なら、この学園を去ることこそがベストな選択だったはず。無理を言って期間を延ばしたのは万莉亜だ。 クレアはそれを快く承諾してくれたが、賢い選択でなかったのはルイスらの態度を見れば明らかだったし、 万莉亜自身も無茶な選択だったと自覚している。
――ここに……居たいのかな。クレアさんも
 理由は分からないが、そんな気がする。
 もちろん、万莉亜を思いやっているのも本当だろうが、彼の態度は、"他に何か理由があるのでは" と勘ぐりたくなるほどに頑なだった。
 ふと血まみれのシャツを見下ろし、グッと唇を噛む。
――でも、もう限界……
 いつまでもこんなことの繰り返し。誰かの血が流れなくとも安全に暮らせる場所が ここではない場所にあるのなら。
 脳裏に浮かぶルームメイトの親友や、愛する祖母の顔が脳裏に浮かんでは消える。
――みんな、ごめんね……
 もう先延ばしには出来ない。
 クレアを選んだ自分の責任を、その覚悟を、きちんと自覚するべき時が来たのだから。



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