ヴァイオレット奇譚2

Chapter6◆「永遠の傷痕―【4】」




 鏡の前で永江(ながえ)はたった今結んだ紺のネクタイと睨めっこをしていた。
 少し堅すぎるだろうか。

 とはいえ、同年代の女性とデートを楽しむわけでもあるまいし、医師としての威厳や面子もいくらかは残して置くべきだろう。 かといって、あまりに堅苦しいのでは、気を利かせて外に連れ出した意味も無くなってしまう。
 結局、たっぷり三十分悩み、彼はいつものスーツ姿で家を出た。
 患者の家族と、個人的に付き合うのが望ましくないのは知っている。しかしその反面で、担当の医師と個人的な 付き合いを持つ事が、患者やその家族にどれほどの安心感を与えるのか。
 それを知っていたから、永江はあっさりと『特例』と作ってみた。
 もともと枠にはまったタイプの人間ではないから、別にいいやという、実に楽観的な考えで彼は ある少女を食事に誘った。

 本音を言えば、この役割は精神科医である友人に努めてもらうのがベストだったのだが。
 先日事の次第を説明し、彼に頼み込んでみたところ、「あいにく手一杯だ」という実に最もらしい答えが返ってきた。 それから「無料? こちとら慈善事業じゃないんだぞ」という剥き出しの本音もだ。
 とはいえ、全く持って彼の言うとおりだったので、永江はさっさとその案を諦めて自ら万莉亜を誘い出す。 いやらしい下心が無かったのかと問われれば、それだけは胸を張って「皆無である」と言えただろう。
 が、待ち合わせの場所に到着し、現れた少女の姿を目の前に、彼の自信は多少揺らぐ。
 パーカーにジーンズにスニーカーというラフな格好をした彼女に見慣れていた永江は、 かちっとした白いワンピースに、髪を結い上げた万莉亜を見て、己のしでかした事の重大さに気付かされた。
 癖も嫌味もない整った顔立ちは、普段は印象に残らないけれど、こうしてめかし込むとため息が零れてしまいそうなほどの 愛らしさを発揮する。やせ気味の体も、永江個人の好みはこの際置いておくとして、とにかく細身のワンピースを綺麗に着こなしていた。
 彼女はどこからどう見ても上等な女性だ。
 しまったなぁ、と心で呟いた。これではおかしな色目で見られてもしょうがない。
 自分と彼女が向かい合って食事をしても、せいぜい叔父と姪が関の山だと高を括っていたから、今になって焦ってきた。 その一方で、思ったよりもフォーマルな格好で現れた相手を見て、スーツを選んだ自分にほっと安堵したりもする。

「先生」
 車から降りてきた永江に気付いた万莉亜が、そう言って軽くお辞儀をする。表情は、やはり 幾分ぎこちないものだったが、気にせず永江は微笑んだ。



******



 敷居は高すぎず、低すぎず。騒がしくなく、静かすぎる事もなく。
 品が良いけれど、若い女性の喜びそうな可愛い内装のレストラン。
 探すのに多少手間取ったが、それでも、手間取った甲斐あって、中々に良い店だ。 少し可愛すぎるので、永江は若干気恥ずかしかったが、正面に座る可憐な女性にはピッタリの空間だと思う。
「先生は、食べないんですか?」
 万莉亜に問われて永江は頷いた。
 夜勤明けで胃がもたれている。ランチに誘っておいてなんだが、とても何かを食べる気にはなれなかった。 が、妙にそのことばかりを気にする万莉亜を見て、彼は慌ててタマゴサンドを追加注文する。
「可愛いお店ですね」
 ランチプレートのポテトサラダを少しずつ口に運びながら、万莉亜が言う。
 そうだろう、そうだろう、と永江が頷いた。
「若い子のデートなんかにはうってつけだね」
「……デートですか」
 困惑顔の万莉亜に墓穴を掘った永江が慌てて言い加える。
「万莉亜ちゃんたちみたいな、若い子向けのお店だよね。今度彼氏でも連れて一緒に 食べに来たら良いんじゃないかな」
「……」
――何を言ってるんだ俺は……
 これじゃ彼氏がいるのかどうか探りを入れているみたいじゃないか。
 そんな風に自己嫌悪に陥ってしまうのも、多分今日の彼女がとても魅力的なせいだろう。
「彼氏、いないですから」
 力なく微笑んで、万莉亜が再び俯く。
 ふと違和感を感じて、永江が考えを巡らせた。そう言えば、彼女が笑ったのを久しぶりに見た気がする。 ただの愛想笑いにすぎなかったが、愛想笑いでさえもう長い事見ていない。
 何かの直感めいたものが、見逃すな、と囁く。
「もったいないな。せっかく楽しい時期なんだから、彼氏作ったらいいのに。万莉亜ちゃんは可愛いから、 きっと男が放っておかないと思うけどなぁ」
「そんなことないです。それにうちは女子校ですから、これと言った出会いもないですし」
 また彼女が笑う。先ほどよりも、上手な微笑みで。
 永江は、今度こそ、彼女が笑顔で武装している事に気がついた。それはいつものように無言でやり過ごす彼女の やり方よりも、、もっともっと強固な武装だった。触れられたくないものを、強く、幾重にもガードしている。
「そっか。……恋人が居たら、きっと良い支えになってくれると思ったんだけどな」
 浮かんだ疑問点をとりあえず頭に記憶して、一旦その話題から切り上げようとした。 無理につつくほど、まだ彼女との関係の土台は出来上がっていない。
 それからさりげなく、万莉亜の心の問題に話題をシフトさせようと思っていた。その矢先だった。 万莉亜の瞳に、また怒りの色が浮かぶ。いや、悲しみだろうか。どちらにせよ、少女の瞳は強い感情でもって 揺れ動いた。
「どうしてそんなことが分かるんですか」
「え……?」
 きょとん、と目を丸くした永江に、我に返ったらしい万莉亜が、慌てて口をつぐみ首を横に振った。
「なんでもないです。ごめんなさい」
「……万莉亜ちゃん」
「なんでもないです」
 語尾を強めて万莉亜が答える。
 その悲壮な表情を見て、引き下がれるような永江ではなかった。これは、何かの糸口なのだろうか。 彼は必死に考える。もしかしたら自分は、とんでもない思い違いをしていたのかも知れない。
 確かに彼女は、数年前に起こった悲劇的事件の被害者だった。けれど今の彼女は、十七歳の美しい 女性でもある。
「もしかして、辛い恋愛でもしてたのかな」
 運ばれてきたタマゴサンドを一口で次々に平らげながら、さりげなく聞いてみる。正面の彼女の気配が、 凍ったのを確かに感じた。
 途端に、ずるずると全身の緊張がほぐれていく。
――……なんだ
 そういう事だったのか。
 彼女には悪いが、力が抜けてしまったのはどうしようもない事実だ。
 どうにもならない過去の惨劇に心を病んでしまったのだと思い込んでいたから、これは永江にとって 嬉しい誤算だった。痴情のもつれならば、少なくとも素人でもアドバイスできる範囲だ。
 無論、だからといって軽んじるわけにはいかない。
 理由が何であれ、万莉亜が実際に痩せ細り、情緒不安定に陥ってるのもまた事実なのだから。
「何があったのか、聞かせてくれないかな。こう見えても僕は大人だからね。 恋愛の一つや二つ、それなりに経験してきているんだよ」
 ニッと笑ってえくぼを見せる相手に、万莉亜は躊躇った。
 この人を前にすると、躊躇ってばかりだ。どうしていつも、一番触れられたくないところを抉るのだろう。 でも、今日は以前ほど感じた抵抗感がない。病院でないから? 相手が白衣を着ていないから?  よく分からないまま、気付けば万莉亜は口を開いていた。
「先生は、誰かを置いてきぼりにした事がありますか?」
「……置いてきぼり? んー、むずかしいなぁ」
「…………」
「僕にそのつもりはなくても、それは相手の受け止め方一つだからね。過去を辿れば、もしかすると、 あるかも知れないなぁ」
「どうして、……そんなことをしたんですか」
「えーと」
 なんと答えたところで、万莉亜は納得しないだろう。永江医師は、万莉亜を置いていった男ではないから、 そんな見も知らぬ男の真意などさっぱり見当もつかない。
「さよならも、言えなかったんです」
「……」
「でも私は、いつもそうなんですよ。きっとおばあちゃんも、突然私を置いていくんでしょうね」
「……万莉亜ちゃん」
「きっとまた、さよならは言えない」
 消え入りそうな声でそう呟いて、少女が微笑んだ。



PREV     TOP     NEXT


Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved.