ヴァイオレット奇譚2 Chapter6◆「永遠の傷痕―【5】」 久しぶりに学園の門をくぐった守屋詩織は、二つに並んだ校舎を感慨深げに見上げていた。 いつまでもそんな風にして動かない娘に痺れを切らし、母親が先に職員室へと向かう。 今日彼女は、他県の高校への編入手続きのための書類を受け取りにこの学園を訪れた。 あの日から、実に四ヶ月ぶりとなる学園だったが、学校自体は現在夏休み中で、 人の気配もなく辺りは閑散としていた。が、彼女はそこで、信じられない人物の姿を目撃する。 「……先輩っ?」 思わず呼びかけると、中庭の花壇の前でしゃがみ込んでいた万莉亜が振り返る。 相手も、自分の姿を見て驚愕している様子だった。詩織はおそるおそる近寄って、どういうことかと 首を傾げる。 「どうして……どうして先輩がここに……?」 「守屋さん……」 詩織がまず驚いたのは、万莉亜のその姿だった。 ギラギラと照りつける太陽の下、涼しげなキャミソールにジーンズ姿の万莉亜は、以前よりもずっと痩せていて、 一回り小さくなってしまった印象を受ける。表情も、いつも華のような笑顔を浮かべていた彼女からは一点、どこか影のあるものに変わっていた。 「どうして先輩がここにいるんですか? クレアさんも戻ってきてるんですか?」 詩織の口から出たその名前に、万莉亜が一瞬目を細めた。まるで、痛みを受けたように。 「まさか……まさか先輩……」 その先の台詞を、詩織は続けられず、万莉亜の表情から全てを読み取って愕然とした。 てっきりクレアは、万莉亜を連れていくのかと思っていた。置いて行かれたのは、自分だけだと思っていたのに。 「だってクレアさん言ったんです。危険だからもうここにはいられないって。そしてこれからは……」 「やめてっ!」 詩織の言葉を、悲鳴に近い叫びで万莉亜が遮る。 何も聞きたくないという彼女の無言の訴えに、詩織は慌てて口をつぐんだ。 「私……行かないと」 そう言って万莉亜が後ずさりを始める。 こんなに弱々しい人だっただろうか、と詩織は唖然としたままそれを眺める。 詩織の中の万莉亜は、いつだって正義感に溢れた、ちょっとお節介なくらいの明るい先輩だった。 けっして好いていたわけではないが、その真っ当すぎる明るさは詩織には無いもので、その点では憧れに近いものがあった。 それなのに、今の彼女はまるで鏡に映った自分の姿を見ているようだ。 他者を寄せ付けまいと、心を見透かされまいと、脆弱な心に硝子細工の鎧をまとっている。 そんな彼女に虚勢を張るのも馬鹿馬鹿しくなって、詩織はゆっくりと口を開いた。多分 これが最後。そんな、感傷のせいもあったかも知れない。 「先輩……私、また高校に行くんです」 「…………」 「……多分またいじめられると思うけど」 ため息混じりに零す。万莉亜が、困ったように眉尻を下げた。 「私……ずっと父親に虐待されていたんです」 「え……」 「お母さんは、それに見て見ぬふりをしていました。きっとお父さんが怖かったんだと思います」 俯きながら、詩織が静かな怒りを滲ませて語る。 「だから、ずっと消えたいって思ってました。今でもそう思ってます。私は、 ただ誰も私を見つけられない、そんな場所が欲しかった。どこかに、そんな場所があるって信じていました。……でも」 誰かを望んでしまった時点で、「見つけて欲しい」と願ってしまった時点で、 詩織の楽園は崩れ去った。望んでいたのは、一人ぼっちの楽園ではなかった。 「気付いたんです。どこへ行っても生きている限りは、ずっと地獄です」 諦めの境地なのだろうか。それにしては幾分清々しい顔で、詩織が万莉亜を見据えた。 「先輩も、地獄を歩いているんですか?」 「……」 「きっと誰の道も、険しくて長いんでしょうね」 でもやっぱり、死んでやるのは悔しいじゃないですか。 そう呟いてから小さく頭を下げて、詩織は旧校舎へと歩き出した。遠ざかっていく後ろ姿を、 万莉亜は呆然と眺め、それからおもむろに足下の花壇にある小さな芽に視線を落とす。 ――どうして止まってしまったの…… 小さな緑色の芽を見つめて、眉根を寄せる。 いっそのこと、踏みつけてやりたい衝動に駆られるけれど、そうすることはせずに、万莉亜はその場を立ち去った。 時の止まったあの小さな新芽なら、もう何度も何度も踏みつけているからだ。 でも次の日には、何事もなかったようにまた天を仰いでいる。うっとりするほど鮮やかな緑色で、素晴らしい未来を予感させるような 生命力を放って。 ****** 永江医師からは、時折、思い出したように電話がかかってきた。 取り留めのない世間話に終始したり、真剣に祖母のことで話し合ってみたり。 内容はさまざまだったが、一貫して言えるのは、たいていぺちゃくちゃと喋くるのは彼の方で、 万莉亜は完全に聞き役に徹しているということだ。 初めこそ戸惑っていた万莉亜だったが、やはり主治医が親身になってくれるというのは心強いもので、 命の綱渡りをしているような状態の祖母を一人で抱えきれなくなりそうな時は、彼の存在が救いにもなった。 しかし、だからといって恐怖から逃れられるはずもなく、万莉亜は普段、あらゆる憂鬱な悩みの種を 心からシャットアウトするよう心がけていた。 「じゃあまた、よろしくお願いします」 「はい。こちらこそね」 万莉亜が頭を下げると、マスターは嬉しそうに微笑んでそう言った。 彼は、万莉亜が勤めていた喫茶店の主人だ。万莉亜を可愛がり、 以前アルバイトをしばらく休ませて欲しいと頼んだときは、本当に残念がって、帰ってくるまで 他のアルバイトは雇わないからね、と優しい約束までしてくれた。 夏休みに突入した万莉亜は、再びここで働く事を決意する。 授業をサボっていた分たくさん補習に出なくてはならないが、それを差し引いても、時間は有り余っていた。 ――頑張ろう……! 無事雇われ先が決まり、少しだけ前向きな気持ちで喫茶店を出る。 その瞬間、名前を呼ばれた気がして、万莉亜は振り返った。 「……?」 ――『万莉亜、帰ろう』 確かにそう聞こえた。これは誰の声だったろう。 毎日、ここに迎えに来てくれていた。アルバイトを終えた万莉亜を、横付けした車の前に立つ青年が 呼ぶ。彼の、優しい声が好きだった。あの耳をくすぐるような優しい声が、脳裏に焼き付いて離れない。 万莉亜は、大きく頭を振って、息を止めた。 考えちゃいけない。思い出してはいけない。名前なんて、絶対に呼ばない。 じっと堪えていた息を吐き出して、乱暴に歩き出す。 「万莉亜さん」 今度こそはっきりと呼び止められて、驚いた万莉亜がもう一度振り返る。 「名塚、万莉亜さんですね?」 黒いサングラスが妙に不釣り合いなサラリーマン風の中年男性が、振り返った彼女に会釈した。 「春川と申します」 「……は」 「あなたを、ずっと探していました」 そう言って男が、漆黒のサングラスをそっと外した。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |