ヴァイオレット奇譚2 Chapter6◆「永遠の傷痕―【6】」 サングラスの下の瞳は、想像を絶するおぞましさで、万莉亜は思わず叫び声を上げた。 「どうしたのっ!?」 飛び起きた蛍が、隣のベッドから降りて万莉亜に駆け寄る。 自分の絶叫で目を覚ました万莉亜もまた、呆然としながら乱れる息を整えるので精一杯だった。 「万莉亜、大丈夫?」 「……ご、ごめん。変な夢見てて」 「何か飲む……と、何にもないや」 備え付けの小さな冷蔵庫を開けて、蛍が舌打ちをする。万莉亜はカーディガンを羽織りながら、 鞄から小銭入れを取り出し立ち上がった。 「自販機で何か買ってくる。蛍は寝てて。起こしてごめんね」 「……一緒に行こうか?」 心配性のルームメイトに苦笑して、大丈夫だよと告げ一人部屋を後にする。 薄暗い寮の廊下を一人歩きながら、万莉亜は先ほどの夢を反芻していた。 あれは、昼間出会った春川という男。サングラスの下の瞳は、恐ろしい事に赤紫色の血管しか存在しなかった。 彼は自分を『第五世代』だと言った。それから『奇跡の成功例』だとも。 彼はあの場で、万莉亜にある取り引きを持ちかけた。 今思い出しても、どうして逃げ出す事もせずまともに相手の話に耳を傾けてしまったのか。恐怖で 足が竦んでしまったのは本当だが、それと同時に性懲りもない考えが頭をよぎった。 ――彼らが、あの人に繋がっているかもしれない。 なぜそんな愚かな考えに捕らわれてしまったのか。一縷の望みに縋った万莉亜は、結局彼の話に耳を傾けた。 けれどすぐ、それは後悔に変わる。絶対に、聞いてはいけない言葉だったのに。 ガシャン、と大きな音が響いて冷たい缶が取り出し口に落ちる。 万莉亜はその音に飛び上がりながら、ビクビクと辺りを見回し、そっと冷えた缶ジュースを取り出した。 けれどそれを飲む気にはならず、近くにあったベンチに腰を下ろし、ただ呆然と薄暗いフロアの中で白い光を放つ 自動販売機を眺める。 ――「取り引きというのは他でもない、あなたのお祖母様についてなのです」 春川は、こう切り出した。 その瞬間、言い表せない恐怖が、全身を巣くった。そして、聞き終わるまでは、もう何があっても 逃げられないという絶望感。 ――「簡単な話です。死か、永遠の生か。あなたはお祖母様に、どちらを与えたいですか?」 そう言って男は微笑んだ。 万莉亜は愕然とした。男の言葉にではない。その提案に、揺れ動いている自分にだ。 「それがあったか」と、もう一人の自分が心で両手を打ち鳴らした。 ――「その代わりに我々が頂くのは、あなたという名の偶像です」 ――「ヒューゴという盲信の対象を失った今、我々組織は壊滅状態にあります。 我々は、第三世代に匹敵するほどの、絶対的な象徴を必要としています」 ――「そしてあなたはかの有名な第三世代、クレア・ランスキーのマグナであられる。 我々の組織の偶像にはもってこいの逸材なのです」 ――「あなたが現在マグナであるかそうでないか。それは然したる問題ではありません。あなたは、クレア・ランスキーを知っている。 彼の存在を、我々にちらつかせる事が出来る。それだけで、十分なのです。欲しいのは、盲信の対象。それが、 空っぽの偶像であったとしても、一向に構いません」 男は饒舌だった。 万莉亜に、口を挟む隙を一切与えず、一枚の名刺を彼女に手渡し、風のようにさっと消えていった。 その時、万莉亜は受け取った名刺を、小さく小さく折りたたんだ。どこかに、捨てるためだった。 「……っ」 思い出して、涙が溢れる。 捨ててくるべきだったのに、今その名刺は、万莉亜の手の平の中に握られている。 これを持ち帰った時点で、自分は悪魔に魂を捧げかけているに違いない。 どうしてこんな選択肢を自分に見せたのかと、あの男を憎みながら、その一方で、 弱くて醜い、どこまでも傲慢な自分を憎んだ。 ****** 助けて。 そう言って、また性懲りもなく手を伸ばす。 そうしてまた、傷つくのだ。 これを延々と繰り返す日々の先に、光があると心に言い聞かせて、涙を堪える。 「……え?」 院内の庭を散歩しながら、たった今聞かされた少女の言葉。 一瞬意味が理解出来ずに、永江は思わず聞き返していた。 「……たとえば本人を差し置いて、安楽死を家族が勝手に決断してしまう事を、先生はどう思いますか……?」 「どうって……その決断に意味はないよ。万が一医者がそのような決断を鵜呑みにして 患者を安楽死させてしまった場合、間違いなく犯罪になってしまう。特に日本では、たとえ本人の意志であったって、 安楽死を認めてもらうのは難しいくらいなんだ」 突然の質問の内容に、内心おっかなびっくりで答える。 万莉亜の表情は至って真剣で、いつものようにどこか上の空という感じでもなかったから、永江は 余計に緊張させられた。 「じゃあ、その逆は?」 「逆?」 「家族が独断で、本人の了承も無しに永遠の命を与えてしまうこと」 「……」 Ifの話だと、そう楽観的に捕らえようとした。でも失敗した。万莉亜が、 瞳に涙を浮かべてこちらを見上げたから、永江はつい強張った口調で答えてしまう。 「もしそれが可能だったとしても、僕はやっぱり、それも犯罪だと思う。それも、 とびっきりの大罪だよ」 万莉亜の頬に、決壊した涙が一筋流れる。 永江は戸惑った。どうやら傷つけてしまったらしい。慌てておちゃらけた声を立てて笑い、 万莉亜の頭をくしゃくしゃと撫で回す。 「何も泣く事無いじゃないか」 「……先生、私は」 「万莉亜ちゃん?」 「私も、そう思っていました。でも今はっ……罪を犯しても、おばあちゃんに生きていて欲しいんです」 「……」 「私は、嫌われてもいい。憎まれてもいいんです。……どうしても、生きていて欲しい。 一人は嫌なんです……っ!」 悲痛な声で叫び、少女が走り去っていく。 追うべきなのかとしばらく迷って、結局永江は病院内へゆっくりと歩き出した。どういう訳か、 全身に鳥肌が立つ。とても奇妙な感じがした。 多分彼女が、可能である事を前提としたような口ぶりだったせいだろう。 ****** その夜、永江は疲れきった体に鞭打って深夜の回診に向かう。 結局一日中、昼間聞いた万莉亜のおかしな発言に捕らわれ、何だかすっきりしないまま 今日が終わろうとしている。 大丈夫だろうか、と冷静になった彼は少しずつ万莉亜自身の心配をし始めた。 医師であるなら、本来真っ先にそれを疑うべきなのだが、いかんせん彼女の真剣な勢いに押され、 そう考えるまでに時間がかかってしまった。 やはりどう考えても、万莉亜はきちんとしたカウンセラーにかかるべきだ。 多分、祖母の事だけでも、相当なストレスに違いない。 「名塚さーん、入りますよ」 静かに告げて戸を引く。 十中八九眠っているだろうと決めつけて、油断していた彼は、暗闇の中上半身を起こし、 こちらに向かって微笑みを向けている万莉亜の祖母に、一瞬ぞくりとさせられた。 違和感は、すぐに沸いた。 彼女が、きゅっと口角を上げて少女のように破顔しているせいだ。すでに顔の筋肉まで 硬直してしまった彼女は、絶対にそんな風に笑えないはずだった。 「あら、先生を驚かせちゃったわね」 そう言って、ケラケラと万莉亜の祖母が隣に立つ人物に話しかける。 そんな彼女の視線を追って、永江医師はもう一度びくりと肩を振るわせた。 彼女のベッドのすぐ脇に、人が立っている。男だ。それも、金髪の外人。 「き、……君は、こんな時間に何を……」 動揺しながらも、どうにか言葉を紡ぐ。 面会というにはあまりにも常識外れなこの時間に、一体どうやって入ってきたのかも検討もつかないが どういうわけかそこにいる外国人の男。動揺するなという方が無理だ。彼の鮮やかすぎる金髪が、 暗闇に煌々ときらめく。それは禍々しいものだと第六感が怯える。その一方で、 なんて美しい青年なのだろうと、もう一人の冷静な自分が感嘆のため息を零した。 ハッと気付くと、青年はバイオレットの瞳を真っ直ぐにこちらに向けていて、永江医師は 急いで次の言葉を模索する。しかし、何も出てこない、威圧されるというのは、こういう事かと、 得も言われぬ彼の美貌に、完全に降伏した己の理性を情けなく思った。 「万莉亜と彼女の祖母を、二人きりにしちゃダメだ」 薄い唇を開いて、青年が静かに告げる。 その横で、祖母はこくりと小さく頷き、それから彼女はどこかもの悲しそうな視線を 医師に向けた。 「先生、私はね、あの子が望むなら、永遠を生きたって全然かまいやしないんですよ。 でもね、あの子に、そんな深い業を背負わせて良いものかって。私は、万莉亜には、まっさらな未来を生きて欲しいんですよ」 「……な、づかさん?」 「本当にね。永遠にあの子の成長していく様を見守って行けたら、それはどんなに幸せな事だろうって、 思うんですよ。あと一年、あと一年、て思っていたけれど、でもきりがないでしょう。ずーっと一緒にいたいけれど、 でも、きりがありませんものね」 「…………」 「もう十分欲張りました。先生、ありがとうございました」 「……っ名塚さ」 思わず走り出した永江医師は、しかし足を踏み出したところで、ぷつりと意識が途絶えそのまま床に 崩れ落ちる。 そんな彼を心配そうにしばらく眺め、寝息を立てて眠っている事を知ると祖母はほっと胸をなで下ろし、 それから隣の青年を見上げて微笑んだ。 「どうもありがとう、クレアさん」 言われて、クレアは難しい顔をしたまま頷いた。これで良かったのか、彼にだって分からない。 リスクの高い第四世代の肉などに頼らずとも、今この場にいる自分の指先を与えるだけで、彼女は 安全に永遠の命を手に入れる事が出来る。そんな彼の心中を見透かしたようにして、万莉亜の祖母はしっかりと彼に 首を振って見せた。 「クレアさん。人には、与えられた天命がありますものね」 そう言って祖母が穏やかに微笑む。 今彼女がそうしていられるのは、それは可能なのだと、クレアが彼女の体に命じたからに過ぎない。 万莉亜に比べると天と地ほどの差はあれど、元々クレアの力に惑わされにくい彼女には、とても強めに暗示をかけた。 きっと、暗示を解いた瞬間、体は悲鳴を上げるだろう。それでもいいと、祖母は彼に懇願した。 道を踏み外しかけている孫娘のために、己の明確な意志を、永江に告げておく必要があるのだと、 彼女は言った。 「……万莉亜は将来、何になるのかしらねぇ」 重たそうな半分まぶたを閉じかけて、彼女がぽつりと呟く。その夢見るような声色に、 クレアの胸がひどく痛んだ。 「クレアさん、あなたも、……どうか心のままに」 まるで独り言のように呟かれた祖母の言葉に、クレアは長いまつげを伏せて押し黙る。 そんな孫の思い人を見上げて、祖母は穏やかに瞳を細めた。 不器用な男の子だなぁと、ずっと前から思っていた。 「……万莉亜」 最後にそう呟いて、祖母はゆっくり目を閉じると、そのまま静かな寝息を立てて眠った。 体力の、限界が来たのだろう。クレアはしばらくその穏やかな寝顔を見つめた後、 堪えていた痛みを吐き出すかのように、静寂の中長いため息をついた。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |