ヴァイオレット奇譚2

Chapter6◆「永遠の傷痕―【7】」




「人が儚さを尊ぶのはなぜでしょう。人が、永遠を忌み嫌うのはなぜでしょう。誰しもが 有限であるこの世界で、それを覆す無限の命は、とても悪質でなければならない。 憎まなければならない。否定しなければならない。これは、身勝手な彼らが独自に作り上げた道理であり、 神という名の独裁者が告げた意志であり、狭量な心のままに書き換えられた理法に他なりません」

 小さな木箱を手渡しながら、春川が諭すような口調で語る。

「この世の総意としての善悪を定義づける事に、一体何の意味があるのでしょう。彼らの理論で言えば、 それすらもこの世では移ろうものだ。ですから今あなたの心に存在しているその罪の意識には、根拠もなければ、 また正しさもない。……唯一の肉親を助けたい一心で永遠に手を伸ばすあなたを、 万物が移ろいゆくこの世では、神ですら裁く事は出来ないのです」
 
 穏やかな響きの中に強い威厳を浮かばせた彼の言葉。しかし、そのたった一つも理解出来ないまま、万莉亜はただじっと 手渡された木箱に視線を落としていた。
 両の手の平にすっぽりと包めるほど小さな木箱。 この中には、とても深い業を作り出す、全ての悲しみの源がある。そう思えば、こうやって平然とこの木箱を手に包んでいる自分が 信じられなくて、万莉亜はまだその事実に呆然としていた。
 そんな彼女を気遣うようにして、春川は一旦席を外す。
 静かな足音と共に彼が応接間から去るのを十分に待ち、完全に静寂が戻ると、 万莉亜はそこで初めて顔を上げた。
 
――何、やってるんだろう……
 見上げた先にある天井からシャンデリアが吊されている。
 外観もさることながら、この屋敷は内装も素晴らしい。
 私設団体アルカードの本質を知っている万莉亜は、彼らの本拠地について、 ずっと薄暗い地下の隠れアジトまがいを想像していた。だからこそ初めて訪れた時は、まずそのギャップに 多少なりとも驚いたし、どこか安堵もした。
 一面のガラス窓からは、外の日差しが眩しいほどに室内に注ぎ込まれ、ここに は後ろ暗い事など何もないような錯覚に陥らせてくれる。
――「神ですら裁く事は出来ないのです」
 先ほどの春川の言葉がまだ脳裏で反響している。
 そうだろうかと、ソファに座ったまま、木箱を見下ろして万莉亜は自問した。
――神様は……きっと見ている……
 春川に自ら接触した自分を。のこのこと、こんな場所にやってきた自分を。迷いながら、 とんでもない大罪に手を伸ばそうとしている自分を。神様は全てを見ていて、そして断罪の時を待っている。
――おばあちゃん……
 万莉亜の中にいる神様は、他ならぬ彼女の祖母だった。彼女は今まさにこの瞬間を見ていて、 そして悲しんでいるに違いない。そう思えば、衝動的にこの木箱を床に投げつけたくなる。一方で、 次の瞬間彼女を失うのかと思えば、木箱を胸に押しつけ握りしめている自分がいた。

 一週間前、春川に貰った名刺を頼りに、今日万莉亜はついにこの場所を訪れる。
 いくつもバスを乗り継いでどうにか到着した彼女を、春川は笑顔で歓迎し、 応接間に通すなり小さな木箱を彼女に差し出した。
 中身について彼は触れなかったが、聞くまでもなかった。
 多分この中にあるものが、祖母の命を永遠にしてしまう欠片。

「あなたが、第三世代のマグナ?」
 唐突に届いた声に驚いて万莉亜が顔を上げる。
 いつの間にか、真っ赤なドレスに身を包んだ年配の女性が、応接間のドアの前に立ち、 少し離れた場所からこちらを観察するような視線を寄越していた。ぎょろりとした目つきの きつい顔立ちは、それだけで万莉亜を威圧したし、実際彼女はこちらに挑むような実に好戦的な足取りで こちらに近寄る。
「私は五條慶子。この屋敷の主人よ。ここは私の別荘なの」
 彼女の言葉に、万莉亜は慌てて立ち上がった。
 すると、すかさず五條の視線が万莉亜の頭の天辺から足の指の先までを舐めまわすように一通り這う。 値踏みされているようでとても居たたまれず、万莉亜は彼女から少し視線を逸らして口を開いた。
「あ、あの……お邪魔しています。私は……」
「万莉亜。名塚万莉亜。七尾女子学園の三年生で、クレア・ランスキーのマグナ」
「……」
「普通なのね。この間攫ってきたマグナの方が、いくらかマシって感じはするけど」
 詩織の事だと、万莉亜が気がつく前に、五條は相手が持っていた木箱を素早く取り上げて、 中身をチラリと覗き見る。それから、つまらなそうに万莉亜の胸に突っ返した。
「お祖母さんが大変なんですってね。春川から聞いたわ」
「……」
「その箱の中身が、あなたの願いを叶えてくれると良いわね」
 皮肉ったように笑う五條に、どんな顔で返したらいいのかが分からない。
 ひどく軽蔑されているような気がするのは、被害妄想だろうか。
――やっぱり……出来ない
 それが上っ面の言葉であったとしても、五條にかけられた励ましの言葉。それに、ひどく 反発する自分がいる。素直には受け入れられない。なけなしの良心が、モラルが。そしてそれ以上に、 抗えない臆病風が吹きすさぶ。
 ずっとこうして揺れ動いてきた。どちらかに針が傾いても、結局どちらも選べないまま。 どちらも選びたくないまま。時間ばかりが、ひたひたと迫り来る。
「どうしたの? 顔が真っ青よ」
 蒼白の相手に五條が眉をひそめれば、万莉亜は焦点の合わない瞳のままに後ずさり、小さく左右に 首を振りながら、その木箱を震える手で応接間のテーブルの上に置いた。
 彼女のそんな動作に、五條が目を細める。
「……どうしたの?」
「私……もうちょっと……考えてみます」
「何? 小さくて聞こえないわ」
「……わ、私」
 腹に力を入れて言い直しかけた次の瞬間、万莉亜の鞄から、携帯の着信音が響く。
 びくりと肩を振るわせ、慌てて鞄を引っつかみ中身を探る少女の動向を、そのたった一つも見逃すまいとした するどい視線が見守る。
「は、はい。もしもし」
『万莉亜!』
 蛍の、妙に切羽詰まった声色に万莉亜が訳を尋ねる間もなく、彼女が 次の言葉をまくし立てる。
『今病院から寮に電話があったの! 今すぐ帰ってきてっ!』
「え……」
『お祖母ちゃんが危篤だって……!』



******



 体中に、電流のような痛みが走る。
 ここで痛みに浸り、嘆き泣けたらどんなに楽だろう。

「今から帰る」
 どんな声でそう告げたのか、自分にはよく分からなかったが、 とにかくそれだけ伝えると万莉亜は携帯を鞄に突っ込んで胸に抱えた。
 視界の隅にチラリと見えた木箱に、今はもう、構っている暇すらなかった。
「私、失礼します」
 気付けば自分の正面に立っていて相手に、さっと会釈してその横を足早に 通り過ぎる。それから扉のノブに手をかけて、思い切り引いた。
「え……」
 頑丈な扉は、どういうわけかびくともせず、幾度か繰り返した後、 施錠されていた事に気付く。慌てて五條に振り返った万莉亜のその視界に飛び込んだのは、 相手がこちらに向けている銃口だった。
「申し訳ないけど、そういうことだから」
 相手の言葉が理解出来ず、困惑した様子の少女に、五條が笑みを浮かべる。
「あなたには、餌になって欲しいの。この意味が、分かるでしょう?」
「……」
「あなたがマグナであろうが無かろうが、そんなことはどうでもいい。必要なのは 盲信の対象? そんなものは必要ない。私たちに必要なのは、第三世代よ」
「……っ」
「人の道に背こうとするあなたを、必ずクレア・ランスキーは邪魔しに来るわ。ヒューゴと違って、 随分とご立派な道徳家だそうじゃない? 利用しない手はないわ」
「か……帰してください! お祖母ちゃんが……っ!」
「焦らなくても大丈夫よ。だって、食べさせてあげるんでしょう?」
 テーブルの上に置いた木箱を持ち上げて、一歩一歩五條が近づく。彼女は 万莉亜の傍に立つと、優しげな声で囁いた。
「大丈夫。神様はきっとお許しになってくれるわ。大事なお祖母さんを、助けてあげるんだものね」
「……っ!」
 相手の言葉に耳を塞ぎたい一心で、万莉亜は咄嗟に両腕を伸ばし、目の前の五條を突き飛ばす。するとよろめいた彼女が 姿勢を正す前に、万莉亜の背後にあった扉が解錠の音と共に開かれた。
 黒いサングラスの春川が、扉の前で向き合っている女二人を交互に見やって、それから五條の持つピストルに目をやり、深いため息をつく。
「五條さん……あなた一体何を……」
「引き留めろって言われたから、そうしてやってるんでしょ」
「手荒な真似はしないでください。こんな銃を向けられたら誰だって逃げ出したくなりますよ。 いいですか。彼女は我が団体にとってとても貴重な……」
 五條に苦言を呈す春川の隙を突いて、万莉亜が部屋から飛び出す。 横切る瞬間に聞こえた男の驚いたような声も、一切聞こえなかったふりをして、万莉亜は走った。
 彼らに付き合っている暇はない。とにかく、一刻も早く病院に急がなければならない。

「待てっ!」
 無我夢中で駆けていた万莉亜の後ろから、初めて見る黒服の男がそう叫び声をあげる。 驚いた万莉亜は、ちらりと彼を一瞥しただけで再び走り出した。心臓が、早鐘を打つ。
「榊くん! 君はそっちから」
 黒服に、指示する春川の声。それから、何かをギャアギャアと捲し立てる五條の声。
 それらを背中に受けながら、万莉亜はすっかりパニックに陥っていた。
 この屋敷から一刻も早く抜け出さなくてはならないのに、自分を追う声に心だけが急かされ、 必死に目の前にある部屋に飛び込む。
「……っ」
 荒い息をどうにか殺して、口元を両手で覆いながら辺りを見回した。
――……ここは……
 雑然とした部屋だった。物置だろうか。十畳程度のスペースに、家具やら コードの抜けた家電やらが乱暴に積み重なっている。しかし、いくら見回しても、 その部屋に窓は一つも存在しなかった。
――どうしよう……
 避難したはものの、いつまでもここにいるわけにはいかない。

「万莉亜さん」

 背後の扉から、静かな声が万莉亜を呼んだ。
「……っ!」
 驚き扉から飛び退いた彼女を、嘲笑うように軽快なノックが二回響く。
「万莉亜さん」
 春川の声だった。すっかり動転した万莉亜は、扉からジリジリと後退し、 先ほど目に入ったクローゼットの戸を引く。
 ぎっしりとビニールの袋に包まれた洋服が並ぶその中に、無理矢理隙間を作って体をねじ込ませ、 震える手で戸を閉める。ほぼそれと同時に、部屋の扉が開かれる音がした。
「万莉亜さん、どうか怖がらないでください」
 クローゼットの前まで歩み寄ると、彼はそこでピタリと止まり、扉越しの少女に話しかける。
「先ほどは五條さんがあなたに失礼な振る舞いをしたようで……私からお詫びします。そしてお約束します。私たちは、 あなたを絶対に傷つけない。むしろ、私は、あなたの信頼を得たいとすら考えています。 今回のお祖母さんの件でもそうです。力になれたらと、本気でそう思っているのです」
「……」
「あなたのサポートを我が教団にさせて頂けませんでしょうか。いえ、……正直に申しましょう。我々教団には、 あなたのサポートが不可欠なのです」
 返事のない扉の向こうの少女に向かって、春川はなおも続けた。
「我々不死者は、長年、謂われのない迫害を受け続けてきました。ご存じでしたか? 先進国と呼ばれるその殆どの 政府は、我々の存在を把握しています。しかし、彼らは決して認めようとはしない。人類の脅威だと、目の敵にしている 団体も数多く存在します。……我々は群れを組む事を好みません。その特性が仇となり、これだけの力をもってしても、簡単に 絶滅の危機に陥ってしまう。私には、それがどうしても納得出来ないのです」
「……」
「我々は団結すべきだ。……それには、強いリーダーが必要なのです。万莉亜さん、あなたは、 その器となり得る人物に繋がる鍵を握っていらっしゃる。我が教団には、あなたが必要……」
 突然言葉を切って、春川が勢いよく体をひねる。
 半分開いた扉の前から、鋭い視線が自分を凝視している事に今更気付く。

「君は……」
「久しぶりだな。おっさん」
 棘のある口調とは裏腹に、まだ幼さの残る少年が、紫の瞳をぎらつかせて口の端を持ち上げた。



PREV     TOP     NEXT


Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved.