ヴァイオレット奇譚2

Chapter10◆「パッション・ブルー【2】」




 あの日、幼いクレアを愛したのには、二つの理由があった。

 一つは、彼がとても美しい顔をしていたから。きっと、目の覚めるような美貌の青年になるだろう。どうせ愛されるのなら、 その方が楽しい。彼を巡って争う女達になどには目もくれず、この男は自分を愛するようになるだろう。その時の優越はきっと、 何物にも代え難いだろう。

 二つめは、彼が哀れなほど無知で幼かったから。
 駆け引きも打算もない。損得など考えない。ただ愛されたいだけの子供を、手懐けることなど容易かった。 人間は嫌いだけど、子供は好きだ。幼ければ幼いほど良い。馬鹿であれば馬鹿であるほど、都合が良い。

 クレア。私はあなたに、未来永劫、物言わぬ人形であって欲しい。
 この欲望を満たすためだけの、木偶の坊であって欲しい。

 妙な知恵をつけ、くだらない主張を唱えるなど、反旗を翻す事など、決して許さない。



「アンジェリア」

 ゆっくりと振り返る長い髪の女は、おそらくずっとここにいたのだろう。最初から、ここにいたのだ。 分かっていて、あえて避けていた。

「……クレア?」
 バイオレットの瞳を見開いて、涙が出るほど懐かしい笑みを浮かべて、アンジェリアが笑う。

「生きて、いたのね……ううん、きっと生きてるって……信じていた。だから私、ずっと神様にお祈りをしていたの。 クレアが、私の所に帰ってきてくれますようにって。クレアを、返してくださいって。だってそうでしょう? クレアは、 私のものなんだから」

 静かに捲し立てる女の背後にそびえ立つのは、記憶の片隅に残っているあの教会だった。かつての記憶よりもずっと 洗練された真新しいその建物は、もう過去の面影すら残していなかったけれど、果たしてこの教会の裏には、 今もリネアの花が咲き誇っているのだろうか。

「この町に、あなたがいることを、本当はずっと知っていたんだ」
「……ここにいたら、またクレアに会えるような気がしたの」

 アンジェリアの言葉にクレアが笑う。少しだけ、苦しそうに。

「アンジェリア……僕は……」
「言わないでクレア。分かってるの。でも大丈夫よ。もう全部、大丈夫なの」

 ふらふらとおぼつかない足取りで駆け寄り、アンジェリアが腕を伸ばす。しなやかな腕がクレアの腰に絡みつくと、 そこで彼女は長い息を吐いた。

「ずっと待ってたの」
「そう。じゃあ随分、待たせたね」
「平気よ。きっと来てくれるって、信じてたから」

 うっとりと目を閉じかけたアンジェリアは、瞬間視界の端に映った見慣れぬ男の姿に、 びくりと肩を振るわせる。
 目つきの悪い、大柄の男。瞳の色はバイオレット。第三世代だとすぐに分かった。興味深げに こちらを眺めている男の手には、大型のライフルが握られている。

「……クレア……誰かいるわ」
「リンだよ。知ってるだろ。彼が第三世代の、リン・タイエイだよ」
「……銃を持ってる」
「うん。彼はあなたを殺しに来たんだ」

 胸に寄り添った女が体を硬直させる。恐怖からではなく、怒りだ。格下の第三世代に女が怯える事はない。 アンジェリアはただ、とても怒っている。描いたシナリオが、思うとおりに進まない事に。

「私を、殺しに来たのね……クレア」
「違う」
「じゃああの男は何」

 こちらを睨み上げて言う相手に、クレアが笑う。バイオレットの瞳は、どんな感情も物語らず、ただ水のようにじっと 彼女を見下ろしていた。

「アンジェリア。僕はあなたに、別れ話をしに来たんだ」
「……」
「三百年もかかってしまった」
「……ク、レア」
「でも多分、ここから始めなきゃいけなかったんだ」

 アンジェリアが回した腰に爪を立てる。そんな痛みを感じている暇もなく、どうしようもない目眩が襲う。 噴き出す汗が止まらない。心が悲鳴を上げている。 目の前の女を、呪いのように愛している。手放そうとする自分を、心が責め立てる。これもきっと、偽らざる本音なのだろう。

 ずっと求めていた答えなんて、きっとどこにも存在しない。



******



 ふわふわと意識を漂わせ、たまに何かを問いかけてくる声に答えるだけ。随分と心穏やかだった万莉亜の 意識は、突然の轟音でもって現実へと引き戻される。

 はっと目を覚ました瞬間、それと同時に呼吸困難に陥り、万莉亜は激しく咳き込んだ。まるでたった今まで首を絞められていたような 苦しさに、涙をこぼす。涙で滲む視界にぼんやりと映るのは、薄い桃色の花々。一面に咲き誇ったその花に囲まれて、万莉亜は 目を見張った。

――……ここ、どこ?

 そんな疑問は、最早抱えるだけ無意味だといい加減思い知らされてはいるものの、ついついキョロキョロと首を振る。

 地面についた両手の傍らに咲いた花は、見た事があるような、そうではないような。よく見る感じの平凡な花だけれど、 その名前は分からない。重要ではないと、誰が言っていたんだっけ。
 広がる薄桃色が、所々鮮血に染まっている。それを辿るようにして視線を走らせたその先に、横たわる体を見つけて、 万莉亜が息を呑んだ。

「……誰なの」

 思わず問いかけた先にある、繊細な光沢を放つ金の髪が風に揺れる。体中が脱力していきそうになるのを堪えて、万莉亜が目を凝らす。

「うそ、なんで……いやっ」
 叫んで、四つん這いのまま重たい体を引き摺り横たわって体に近寄る。
 ぐったりと倒れ込んでいた体は、無数の鋭い切り傷を白い肌に刻まれて赤に染まり思わず目を覆いたくなったが、 意識はかろうじて残っているようで、突然現れた少女の声に、ゆっくりとバイオレットの瞳が開かれる。

「クレア、さん」

 おそるおそるといった様子で見下ろす少女の姿を、信じられないものでも見ているような目で見つめる。 一方の万莉亜も、突然血だらけのクレアが横たわっていたので、完全に動揺してしまい、二人は黙ったままお互いの姿を見合った。

「どうして……これも過去なの? どうして私にこんなもの、見せるの」
 やがて涙と一緒にこぼれてきた万莉亜の言葉。クレアには理解出来なかったが、その万莉亜の言葉が、自分への 問いかけにも思えず、ただぼんやりと悲しげな彼女の声に耳を傾けた。

 もうずっと、こんな声ばかり聞いている気がする。
 出会った時、彼女は、眩しいばかりの明るい少女だった。

「もうやめて、私には何も出来ない。何も変わらないなら……どうして私に見せたりするの!?」

 人生を、やり直す事なんて出来ない。過去は、過去のまま。その姿を、変える事はない。分かっているのに、 一瞬でも望んだ願いを、酔狂で叶えてやっているつもりなのだとしたら、ずいぶんな悪趣味だ。

「……万莉亜」

 掠れた声が、万莉亜の名を紡ぐ。しっかりと自分を見上げているそのバイオレットの瞳に、万莉亜の混乱は より深まった。見慣れた優しい色は、時折空の青を映して、水のように揺れる。

「万莉亜……会いに来てくれたの?」

 そう言って微かに微笑んだクレアの中に、さきほど万莉亜を殺したクレアが見え隠れする。水のように揺れる度に、 現れては、消える。過去は切り離せない。だからといってどうする事もない。変える必要はないのかも知れない。そう唐突に万莉亜が悟ったその時、 クレアが苦しそうに呻き、出血のひどい脇腹を押さえ込んだ。

「クレアさん!」
「大丈夫、すぐに治る」
「どうしてこんなこと、誰に……」
 問いながら、彼にここまでの深手を負わせる事が可能な人物は、そうそう居ない事を思い出し、まさかと思い当たった万莉亜の 顔から血の気が引いていく。

「万莉亜、聞いて。ずっと言えなかった」
「え……」
「迷ってばかりだ。今も迷っている。でも、眠り続ける君に、誠意を見せなきゃいけない気がしたんだ。 そうしないと、二度と目を覚ましてくれない気がして」
「…………」
「愛してる。会えて良かった。もう言えないのかと思った。それとも――」

 幻かな。
 そう言って笑うクレアが、白い霧に包まれる。視界が遮られ、どんどんと その場から体が遠ざかっていくのが分かる。

「いや、待って……クレアさんっ!」
 手を伸ばして叫ぶ。愛してると言った。まるで、別れの言葉のように。

 まるで、今生の別れのように。



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