ヴァイオレット奇譚2 Chapter10◆「パッション・ブルー【1】」 額に流れる汗を拭おうともせず、ただじっと膝の上に置いた両手と睨めっこを続けている。 先ほどからずっと。もう一時間は経過したのかも知れない。ついに気でも狂ったのだろうか。そう思って微動だにしない 相手に、手元にあったスプーンを頭めがけて投げつける。 ゴン、と鈍い音を立ててヒットした後、耳障りな金属音を立ててスプーンは床に落下した。 そこでやっと、固まっていたクレアが顔を上げる。 「……痛いじゃないか」 「悪かったな。暇だったんだよ」 悪びれもしないリンを一瞥して、クレアはまた視線を手元に落とした。 「そんな汗だくになって何を考えてるんだよ」 「うるさいな。暇だったらルイスにでも相手してもらえよ」 「暑いのか?」 「……いや」 暑くはない。肌寒いくらいだ。それにしては汗だくの自分を見て、リンがまた小首を傾げているのが分かる。 「風邪でも引いてるんじゃないか」 「かもね」 風邪など、ここ三百年ほど無縁なのだが。リンのつまらない冗談を適当に流して、クレアが立ち上がる。途端に、激しい目眩を感じて 思わず地面に膝をついた。グラグラと揺れる焦点が定まるまで、じっと目を凝らす。 「……クレア」 「なんでもないよ」 「お前、最近おかしいぞ」 分かってるよ。 そう小さく答えて金髪の青年は静かに部屋を後にし、そのまま隣の部屋へと向かう。途中、心配顔のルイスと すれ違ったが、特に声をかける事もせず、黙ってやり過ごした。 あの学園の花壇で万莉亜を見つけてから二日。あの夜、胸に灯った小さな灯火。それを感じてしまってから、 頻繁に起こる目眩。それは日に日に激しくなって、今はもう、何か体を動かす度に視界が揺れるようになってしまった。 中央にベッドが置かれただけの殺風景な部屋に入り、扉の横に下げられた鏡を覗き込む。 ひどく焦燥しているはずの自分の顔は、鏡の中ではなぜか怒りに燃えている。憎々しげに、こちらを睨んでいる。これは 錯覚なのだろうか。それとも、あるがままの姿なのだろうか。 ――許さない 鏡の中の男が言う。この声に、ずっと耳を塞いできた。でも、そうすべきではないと覚悟を決めて、立ち上がったはずだったのに。 ――許さない 青い瞳が怒りの炎を灯す。異端の印であるあの紫色は、どこへ行ってしまったんだろう。一体いつから、 こんな風に心が裂け始めていたのだろう。 ――許さない。あの女の、手を離す事を、俺は許さない ずっと耳を塞いできた。でも、そうすべきではないと覚悟を決めた。でも、万莉亜が泣いた。 汗が止まらない。震えも、指先の痺れも。 振り返って、中央のベッドを見やる。 白いシーツに流れる黒い髪に触れたい。そんな衝動に駆られて近寄り、横たわる彼女を覗き込めば、相変わらずまぶたを閉じたままの 万莉亜の顔が見えて、クレアは眉をひそめた。 「万莉亜」 名前を呼んで欲しい。無性に、彼女の快活な声が聞きたい。取り留めのない話が聞きたい。太陽にも勝るあの笑顔が見たい。 でもそれは叶わない。もう二度と、叶わないのかもしれない。 そうなってみて初めて気付かされる。 それを言葉にするだけの、勇気が欲しい。 「万莉亜」 ――本音を裏切るための、覚悟が欲しい。 ****** 薄れていく意識の中、最後に見えた青い瞳を、忘れないようにと心に留めて、万莉亜は意識を手放した。 もう死んでいるのだから、殺された、というのは少しおかしな話かもしれない。 それでも、容赦ない力にねじ伏せられて、躊躇いなく捻り上げられた万莉亜は、やっぱりクレアに殺されたのかも知れない。 悲しい人だと思った。 あの青年は、それを理不尽に感じていなかった。ただアンジェリアの命ずるままに、人の命に手をかけた。躊躇うそぶりすら見せずに。 狂信的な愛情だ。あんな風に、いとも容易く人を殺せるだなんて。到底万莉亜には計り知れない。 ――やっぱり私には…… 手に負えない。どうする事も出来ない。 過去は、彼の人格そのものだ。この先の未来がどんなに長くとも、彼の全てはこの過去にある。万莉亜と出会った未来などに、 何の意味も無い。何も変えられない。変えられなかった。 ――「思うんだよ、万莉亜」 遠くから、反響する声は、赤ん坊のようでもあるし、年老いた老人のようでもある。その声に耳を澄ませて、 ふわふわと漂う意識の中、万莉亜は頷いた。そういえば、彼の名前をまだ聞いていなかった。 ――「私はいつだって、正しい道をあの男に説く事が出来た」 ……どういうこと? ――「私はそれをしなかった。過去を許したいと願いながら生き続けていく事は、過去を憎み続けている事と、どう違うのだろう。思うに、 それは一番愚かで、出口のない選択だ」 あの人は、アンジェリアを許したい ただそのためだけに、生きているの? そう言いたいの? ――「許しも、断罪も、過去は求めない。過ぎ去ったものは、もう何も、求めたりはしない」 でも、……それは難しいの。だって踏み出す一歩は、気が遠くなるほどに重いんだもの ――「万莉亜。私は見たい」 何を? ――「希望を」 あの青年に託してしまった、切ないほどの希望を。 ずっとそれを、見せてほしかった。 強く生きるために、必要だった。 誰かの背に、明日の自分を見いだす。 だから、挫けないで欲しかった。 ――『ねぇクレア。どうして恨みは、いつまで経っても消えないのかな。 ねぇクレア。時々、心が凍ってしまっているような気がするの。 時間が、全てを解決するなんて、嘘っぱちよね。 だって私たちには、時間なんて流れていないんだもの。 止まってしまったあの日のまま。心もずっと、あの日のまま。 でもねクレア。そうじゃないって、信じたかったの だってそれって、死んでいるのとどう違うの?』 あの日の同胞の言葉に挫けたお前を、許さないのは私のエゴだろうか。 Copyright (C) 2009 kazumi All Rights Reserved. |