ヴァイオレット奇譚2

Chapter9◆「始まりの街のエトランゼ―【4】」




 激しい音と共に扉が打ち破られ、黒ずくめの男が二人、足音も荒く室内へと上がり込む。
 
 ベッドの上で身を起こした女は、異常事態を察し、姿の見えない恋人の名を呼んだ。

「……イェスタ、イェスタッ!」

「こんばんは、アンジェリア」

 狼狽する女をそう呼んで、ゲルマンは唇の端を持ち上げる。この女の、怯えた顔がたまらない。魔の者らしく 妖しい魅力を纏ったアンジェリアは、わけもなく自分の内にあるどす黒い衝動を刺激するのだ。

「ゲルマン、またあなたなのね……」
「昼間、街でちょっとした騒動があってね、君にも事情を聞きたいんだ。 ……黒い髪の魔女を見たという証言が出ていてね」
「……」
「私たちの要求はただ一つ。証明して欲しいんだ。今日の昼間、君はここで、寝ていたと」

 ゲルマンの言葉に、アンジェリアは唇を噛みしめる。
 人里離れた山奥に家を建て、好奇の視線を避けて生活をしている彼女には到底不可能だと知っていてこの男はそんな事を言う 。とんでもない性悪だ。でも、恐ろしくてたまらない。ああどうして人間とは、こんなにも狡猾で、傲慢なのだろう。とても、 敵う気がしない。

「……イェスタはどこ……私の、イェスタは……」
「さぁ。こんな夜更けに愛する人を放り出して、どこで悪戯をしているのやら。そういえば、 マルタという街の女とも随分親しげだったけれど」

「イェスタは……ど、こ……」
 
 白い頬に伝い始めた雫を拭う事もせずアンジェリアは恋人の名を呼び、ゲルマンはますます満足げにそれを眺める。 たっぷりと楽しんだ後で、連れてきた従者に肘を小突かれ、ゲルマンはアンジェリアのベッドへと一歩踏み出した。

 女が金切り声を上げるのと同時に、飛び込んできた青い瞳が長身の男めがけてナイフをその背中へ突き立てる。 そのまま床に倒れ込んだゲルマンが、ショックで乱れた呼吸のまま視線を向けた先には、獣のように怪しい虹彩を浮かべた 青年が怒りも露わに馬乗りになっていた。

「ッ、イェスタ……貴様っ……」
「殺してやる」
「なっ」
 驚愕の声も言葉にならないうちに、ゲルマンの右目にナイフが突き立てられる。それから間髪入れずに 左の目にもナイフを突き立て、抉るようにして深く差し込む。
 ゲルマンの濁った奇声が、静かな森に轟き、こだまする。

 のたうち回る男から離れ、荒い呼吸を整えてナイフを握り直したイェスタがギラギラとした瞳で振り返れば、 ゲルマンの従者である長身の男はもつれた足取りでベッドまで駆け寄り、アンジェリアの長い髪を 思い切り引き寄せる。腰元に忍ばせていた短剣を女の喉元に当てて、命乞いをすべきか、脅すべきかを考えた。

 自分より遥かに小柄で、腕力も劣るであろう若い小僧相手に、何を恐怖する必要があるのかと自問したが、 それでも、本能は正直に身の危険を伝えた。ゲルマンの目を抉るさいに見せた彼の思いきりの良さは、あれは人が持って良い度胸ではない。 殺人鬼だ。躊躇いを捨ててしまった、言語すら通じない殺人鬼に他ならない。

「イ、イェスタ……待てっ、待て!」
 
 じわりじわりと距離を詰めてくる相手に、従者はたまらず声を上げる。自然と短剣を持つ手には力が入り、 それがまた、青年の怒りを買っている事も気付けないほどに動揺にのまれている。

「殺して」

 ぴんと張り詰めた空気の中、芯の通った声で女が言った。
 驚いて、従者は羽交い締めにしている女に視線を向ける。

「殺してイェスタ。いつものように。私のために」
 熱に浮かされたような表情で言う女を見て、従者の背筋に冷たいものが走る。
 なぜだろうか。 今自分を切り刻まんと牙を向けている目の前の殺人鬼よりもずっと、空恐ろしいものをこの女に感じてしまうのは。



******



 一人残された静かな森で、背の高い針葉樹にもたれ掛かりながら万莉亜は俯いていた。

 何かを考えるほどの力はなかったし、嘆き悲しむには疲れすぎていた。真っ白になった思考回路で、 ただ呼吸を繰り返すだけ。生きているのか、死んでいるのかも分からない。散々悲嘆に暮れた後は、不思議と心は穏やかで、ぼんやりと 闇夜に浮かぶ月の明りを浴びてもなお、自分の足下には影一つ出来やしないことを自然に受け入れる事が出来た。

――「万莉亜が、還りたがっているから」

 バイオレットの瞳をしたあの人の言葉を思い出す。

――「皆還りたがっている」

 心の内を見透かされたと思った。それと同時に、一つ分かった事がある。万莉亜よりも、クレアよりも、他の誰よりも、過去をやり直したがっているのは 目の前のあの人だった。とても悔やんでいた。
 だからあの人は、見過ごせない。

 後悔しながら、心を血だらけにして生きている人間を、どうしても見過ごせない。



「アンジェリア……」

 背後からそう呼ぶ声がして、ゆっくりと万莉亜が視線を持ち上げる。
 それが先ほどの老婆であろう事は、途中から気付いていたが、もう恐れはなかった。

「こんばんは」
 少しだけ微笑んでそう言うと、老婆は肩を振るわし、訝しげな視線を万莉亜に向ける。その手には、松明の代わりに刃渡りの長い 鉈のようなものが握られていて、万莉亜は思わず苦笑した。

「おばあさん。私は、アンジェリアではないの」
「嘘をつけ……お前は魔女だ。私には分かるんだ」

 そうなのかも知れない。万莉亜はアンジェリアではないけれど、今の万莉亜の存在はこの世の理に反している。 それはたとえば、魔女と呼ばれてしまうような危うい存在なのかも知れない。そう考えると、この老婆が不憫になってきて、 万莉亜は怒りと恐怖で全身を震えさせている相手を憐れんだ。
 彼女は、真実を訴えているだけだ。

「……私は、万莉亜。万莉亜と言います」
「マリア……?」

 しわがれた声が万莉亜の名を呼ぶ。妙に胸が締め付けられて、喉が熱くなった。身を裂くような痛みではなく、 懐かしさのあまりこみ上げる、どうしようもない切なさ。彼女の声は、かつての祖母を思わせる。

 ああ嫌だ。もう、あの人の声をこの耳で聞く事はないのだ。

 ふいに涙がこみ上げてきたその時、森の奥から、獣のような雄叫びがこだました。咄嗟に万莉亜が眉をひそめる。 人の声にも思えたからだ。

「な、なに……」

 狼狽する万莉亜を横切って、老婆が駆け出す。

「おばあさんっ!」

 そんな呼びかけも無視して走り出してしまった老婆の後を、咄嗟に追いかけた。



******



 血にまみれたシーツや衣服を全て土の中に埋めて、死体のための穴を掘る。どのくらい深く掘れば、 強い雨風に暴かれる事がないのかを、この腕はもう知ってしまっている。
 死体を埋めたら、またこの町を出なければならない。そのための資金も稼がなくてはならない。また、名前も変えなければならない。

 考えるのはいつも自分の役目だった。それが当然だとも思っていた。

「……イェスタ」

 そう名前を呼んでは腰にまとわりつくアンジェリアが邪魔で、作業にならない。振り返れば、顔を赤らめて、瞳を潤ませながらこちらを 見つめ返してくる彼女がまるで少女のように微笑んだ。

「この町を出よう。もう3人殺してる。ここにはいられない」
「……次はどんな名前にする?」

 瞳を輝かせるアンジェリア。事の重大さがまるで分かっていない。でもそれも、いつものことだ。

「アンジェリア。中に入って、荷物をまとめてくれないかな」
「嫌よ。ここにいる」
「今夜中に全部済ませなきゃならないんだよ」
「ここにいる」

 青年の腰に回す腕の力を強めて、アンジェリアが首を振った。諦めたのか青年が握ったシャベルの柄を握り直したその時、 背後から近づく慌ただしい足音に気付いて動きを止める。腰に回された恋人の細い腕にそっと手をかぶせて、ゆっくりと振り返る。

 「……お前らは」

 突然現れた、老婆と若い女。さきほど窮地を救ってやったはずの女が、天敵であったはずの老婆と一緒になって現れた。
――最初から、組んでいたのか?
 そんな考えが、青年の頭に浮かんだ。

 魔女だと言って責め立てられるあの女が、アンジェリアの姿に重なってつい余計な事をしてしまったが、やはり 仏心なんて出すべきではなかった。たった一人を守るのにだって、手一杯だというのに。

「アンジェ……」
「あなた、何なの!」
 青年の言葉を遮って、アンジェリアが声を張る。それは真っ直ぐに、黒髪の少女に向けられていた。

「……アン、ジェリア……」
 少女が大きな黒い瞳を揺らし、アンジェリアの名を呼ぶ。
「嘘よ……何なの……どうして……」
 一方のアンジェリアも、完全に狼狽し、声を裏返しながら後ずさる。

「殺して! イェスタッ! その女を殺してっ、でないと私……」
 叫んで、アンジェリアが青年の肩を揺さぶる。ふと足下に視線を落として、たった今この手で その命を絶った二つの死体を見つめた。
――また殺さなきゃいけないのか
 それが、少し億劫に思えた。今夜はもう、疲れすぎている。でも、アンジェリアがそれを望むのならば。

 顔を上げて少女を見やる。彼女は、青年が目をやった死体に釘付けになっていて、随分無防備な状態だ。 隣の老婆は物騒なものを握っているが、所詮は足腰の弱った老人だ。

「アンジェリア、中に入っていて」
 小声で告げると、彼女は激しく首を振って拒否した。事情は分からないが、彼女は真っ青な顔で 少女を睨み、怯えているように見える。あれの、一体何がそんなに恐ろしいのだろう。

「いやっ、来ないで!」
 フラフラとこちらへ近寄る少女にアンジェリアが悲鳴を上げる。思わず青年も身構えるが、 少女は意にも介さず歩を進め、横たわる死体を前にしてぺたりとしゃがみ込んだ。血まみれになったそれを、ただ 呆然と見下ろし、言葉を失っているようにも見える。

「殺してイェスタ、早く殺してっ……!」

 取り乱したアンジェリアに急かされて、青年が少女の背後から腕を伸ばす。わざと荒々しく足音を立てたのに、相手は 振り返るそぶりさえ見せなかった。
 思い切り髪の毛を掴み上げ、彼女の体を引き倒す。

 顔を歪めながら、少女は泣いていた。

「……クレアさ、」
「俺の名を呼ぶな」

 そうだ。こいつはなぜか自分の名を知っていた。不審だ。殺さなければならない。
 細い首に手を回し、力を込める。少女が、苦しげな声を上げた。それでも、涙の浮かんだ黒い瞳は、 まっすぐに青年の瞳を捉えて、揺れる事はない。

「知らなかった……」
 吐息だけの声で、少女が言う。微笑んでいるように見えるのは、錯覚だろうか。

「綺麗な――」

 青。



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