ヴァイオレット奇譚2

Chapter9◆「始まりの街のエトランゼ―【3】」




 人家の壁にもたれかかり、膝を抱えて俯いていても、誰も振り返らないので、 万莉亜は誰の目をはばかる事もなく、その場でしくしくと泣き続けた。

 胸が痛い。理由は、よく分からないし、分かりたくもない。
 ただ、死んでもなおこんな風に胸を痛めて泣かなければならない今が辛い。
 この世とも知れぬ異国の地で、 たった一人泣かなければならないなんて。これが死後の世界なら、あんまりではないか。
 夢なら早く覚めて欲しいと願う万莉亜をよそに、時間は刻々と過ぎていき、辺りは薄暗く人気もまばらになる。 見かける誰もが厚着をしているから、きっと寒いのだ。でも、それすら万莉亜には分からない。
 この体はまるで現実感がないのに、この場所はひたすらに現実だ。

――……これからどうしたらいいんだろう
 途方に暮れて、俯いていると、突如目の前が明るくなった気がして、顔を上げる。
 ぱちぱちと音を立てて燃え盛る松明を片手に、昼間の老婆が物凄い形相でこちらを見下ろしていた。
「……っ!」
 驚いて言葉を失っている万莉亜に、老婆が薄く笑う。暗闇の中炎に照らされたその表情があまりにも不気味で、 もう死んでいる事も忘れて、己の命の危機に万莉亜は立ち上がった。
「……あ、あのっ」
「魔女め……この町に災いをもたらす魔女、アンジェリアめ……」
「違います! 私、アンジェリアじゃないっ!」
 松明を持った老婆を前に壁際に追いやられた万莉亜は必死に訴えかけるが、無論相手は聞く耳を貸さない。
「お前がこの町にやってきたせいで……息子は事故にあったんだ。あんたさえ来なきゃ、 息子が死ぬ事もなかった! お前は災いをもたらす魔女だっ!!」
 今にもこちらに向けて松明を振り下ろさんとしている老婆を前に、言葉など無力だとは分かっていたが、 逃げようにもすっかり恐怖に竦んでしまった足が上手く言うことを聞かない。

「やめてっ……!」
 迫り来る炎から、咄嗟に頭を抱えた腕を、次の瞬間何者かに引かれ、 万莉亜の体は半ば強制的に壁から引き剥がされる。

「イェスタッ!!」
 背後で、そう叫ぶ老婆の声が聞こえた。
「やはりアンジェリアなんだね!? その女はアンジェリアだ! だからお前がかばうっ! そうだろうっ!!」
 静かな夜の町に上がる老婆の叫び声もおかまいなしに、青年は万莉亜の手を引いて走り続けた。万莉亜も、もつれた足で どうにか彼のスピードについて行こうと躍起になる。
 本格的に人里離れた雑木林の入り口に辿り着くと、青年は後ろで息を切らしている少女の腕を解放し、それから 自信の汗を拭う。万莉亜はやっとのことで地面に崩れ落ち、破れてしまいそうな心臓をぎゅっと衣服の上から掴んだ。

「……あのばあさんはしつこいから気をつけた方が良い」
 息を整えて、青年が言う。混乱したままの万莉亜は、彼を見上げる事すら出来ず、ひたすらに荒い呼吸を繰り返しながら 地面を見つめていた。
 しばらく待っても顔を上げようとしない少女に、「じゃあ」と残して青年が背中を向け歩き出す。 それから雑木林を慣れた足取りで進んでいると、背後から慌てたような足音が自分を追っているのに気付き、 彼は今一度振り返った。

「何」
 少女が何かを言うより先に尋ねると、相手はそれだけで 萎縮してしまったように俯いてしまう。
「悪いけど、急いでるんだ」
「……あの……ありがとう、ございました……」
「気をつけて」
「あ、……あのっ……あ、の」
 もたもたとまだるっこしい相手の口調を聞いて、付き合っていられないと青年が踵を返す。
「あ、ま、待って……待ってくださいっ!」
 上手く言葉を紡げない自分に辟易して、青年がどんどん遠ざかる。焦れば焦るほど、 万莉亜は言葉を見失い、馬鹿みたいに「待って」と繰り返しながら彼の後を追う。

 ああ嫌だ。死んでまで、彼の背中に追いすがっている。
 そんな事を考えて、切なさのあまり万莉亜は足を止めた。
――馬鹿みたい……
 あの青年に、何を言おうとしていたのかも分かっていないくせに、追いかけて何になるのだろう。 もう嫌だ。ここがどこであれ、何であれ、自分はもう死んだはずだ。それなのに、何でまだ泣いているのだろう。 いつになったら、この苦しみから解放されるのだろうか。

「……クレアさん……っ」

 さよならを決めたのに、うっかり連れてきてしまった恋心にまた心が痛む。
「もう……嫌だ……」
 情けないけれど、もうしくしくと涙する事以外に、自分に出来る事は何もない。 だからまた、その場で足を抱えて泣こうと思っていたその時、いつの間にか立ち止まっていた相手が こちらへ戻ってくる姿が見えた。
 彼は足早に万莉亜に近づくと、そのまま乱暴に彼女の腕を引き上げ立たせる。それから、彼女の細い首に 指を回し、ぐっと力を込めた。突然の事に、万莉亜は瞬きも忘れて彼の顔に見入る。見れば見るほど、彼の姿は クレアそのものだった。

「なぜその名を」
「……え」
「お前、探っただろう」
 プルプルと首を振る。それでも、青年は疑わしそうに目を細めるだけだ。
「あんたが何者でも俺には関係ない。でも、特異な力で人の素性を覗き見るような胸糞悪い真似をするな。この恩知らず」
「…………っ」
 黒い瞳からボロボロとこぼれ落ちる涙を見ても、彼は顔色一つ変えず、相手を睨み付けながら突き放すようにして首にかけた手を振り払う。 へなへなと崩れ落ちた万莉亜は、今度こそ精も根も尽き果て、だらんと地面に俯いたまま涙をこぼす。
「それから、あんまり怪しい挙動をするとこっちにも火の粉が降りかかる。悪いけど、もっと考えて行動してくれ」
「……」
「じゃあ、俺はもう行くから。…………あんた、行く当てあるのか?」
「……」
「まぁいいけど」
 すっかり生気の抜けた少女を見下ろしてそう言うと、青年は再び歩き出す。歩みには迷いも躊躇いもなく、 彼はあっという間にその場から姿を消してしまう。
 
「……探って、ないもん」
 彼が消えてから、涙声で万莉亜が呟いた。
 とてもじゃないが、事態についていけない。何が起こっているのかも何も分からない。それでも、理不尽に責められたと、心が悔しがっている。

「探ってないもん……っ!」
 地面についた両手で土を握りしめ、それを彼の消え去った方向へと投げつけた。

――『はじめまして。僕はクレア・ランスキー』

 隠されたあのフロアで、美しい青年が妖艶に微笑みながら言った。
 あの時の、彼の静かな声が、頭で静かにリフレインする。



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