ヴァイオレット奇譚2

Chapter9◆「始まりの街のエトランゼ―【2】」




 もう何百年も過ぎた気がするし、たったの一時間しか経っていない気もする。

 目覚めた万莉亜は、まず死人のくせに睡眠を取ってしまった己にさんざん驚いてから、 おそるおそる辺りを見回した。
 背後には、薄汚れた高い壁。眼前に広がる、路地一杯に並んだ露店。その遥か後方には、大きな西洋風の建物の数々。それでも ここから見ると豆粒ほどの大きさしかない。

 まだ体半分横たわっている自分の前を、あらゆる人が忙しなく通り過ぎていく。
 目が点になるというのは、おそらくこのことだ。万莉亜は瞬きも忘れて、呆然と道行く人らを下から見上げた。 状況が、さっぱり掴めない。

「えっと……」

 困り果てて、一人呟く。もちろん、振り返ったり足を止めたりするものはいない。通じていないのかも知れない。 ここがどこなのか、何も分からないが、少なくとも、見える範囲の通行人たちが日本人でない事は分かる。 女性は皆髪を纏め上げ、時代錯誤な中世風のドレスの裾を引きずりながら歩く。
 時代錯誤な衣装は男性も同様だが、中には腰に刃渡りの長い剣を差しているものも居て、思わず息を呑み身を固くする。
 しかし、武器を片手に通りを闊歩している者も、その他の全ての者たちも、皆万莉亜になど一瞥もくれずに 通り過ぎていくから、寂しいやら安堵やらで体の力が抜ける。
 この場で、万莉亜が着ている薄手の白いパジャマは、とても浮いていると自分でも思う。背中に好き放題流すだけの 髪型も、浮いている。なのに、誰も視線を寄越さない。

 見えていないのかも知れないと、気付いたのはそれから数分経っての事だった。

――私……幽霊なのかな……

 呆然としながら壁にもたれかかっているのにも飽きて、フラフラと歩き出す。誰も気にも留めないから、 誰かとぶつからないように歩くのは至難の業だったが、ぶつかったらどうなるのか興味もあった。
 が、恐ろしくて実行は出来ずに、結局人気のない場所を求めてまた歩き出す。
 
 どれだけ歩いても不思議と疲れる事はなかったし、裸足のまま走っても痛みすら感じない。
 幽霊なのか、はたまたこれは夢なのか。そのどちらでも、大した違いはないように思える。

――私もしかして成仏出来てないの?

 そんな風に途方に暮れて、通りの石段、どうやら人様の玄関口に腰を下ろして居た時だった。
 通りすがった老婆が、ピタリと足を止め、おそるおそる万莉亜に視線を向ける。そして次の瞬間、 老婆は周囲の人間を凍らせるような金切り声で叫んだ。

「魔女だっ! 魔女がいるぞっ……!! 誰か、誰か!」
 そう騒ぎ立てる彼女を、周囲の人間は疎ましげに眺めるだけだったが、しばらくして 玄関口の扉から姿を現した一人の若い女が老婆を睨み付ける。
「ちょっと、ボケるんなら自分の家でやってよね。人の家の前で騒がないでちょうだい。うるさくて赤ん坊が起きちゃったじゃないの!」
 そう言ってつかつかと老婆に歩み寄る女とぶつからぬよう、万莉亜は慌てて体をねじる。途端に、老婆が再び金切り声を上げた。
――……この人、私が見える……?

「うるさいって言ってんのよ!」
 腹を立てた女が怒鳴りつけ、相手の体を押し飛ばすと、老婆は取り乱し金切り声を上げながら万莉亜に突進する。 間一髪の所で逃れた万莉亜が避けると、女はすぐさま老婆の首根っこを引っつかみ、再び通りに押し戻した。 その時点で、二人は十分すぎるほど周囲から注目を浴び、女二人の喧嘩の行く末を皆興味半分に眺めている。
 どうしようどうしようと人知れず万莉亜がうろたえていると、やがてギャラリーの中から、黒い外套に身を包んだ 背の高い男が二人の前に歩み出た。

「やあマルタ。一体これは何の騒ぎですか?」
「……ゲルマン。そんなのこっちが聞きたいわよ」
 女はそう答えて、ギロリと老婆を睨み付ける。相変わらず魔女がいると騒ぎ立てている 彼女を見て、ゲルマンと呼ばれた長身の男性が、チラリとマルタの家の玄関口に目を向けた。
 その瞬間、目があった気がして万莉亜の心臓が跳ねたが、彼の視線はすぐに的外れな場所に向けられたので、 そっと胸をなで下ろす。
「……ここに、魔女が?」
「そうだよ! 黒い髪の魔女だ! 今日は白い服を着て皆を欺こうとしているが私には分かる。こいつはアンジェリアだよっ!」
 叫んで、老婆が道ばたの小石を投げる。
 咄嗟の出来事に今度こそ万莉亜は微動だに出来なかったが、幸運な事に石は軌道を外れ明後日の方向へ飛んでいった。

――……今、なんて……
 石が当たらなかった事に安堵する事も忘れて、万莉亜が老婆の言葉を反芻する。
 アンジェリア。そう老婆が言った。再び、心臓が早鐘を打ち始める。

「アンジェリアがここに?」
 老婆の突飛な言葉に片方の眉を上げて、ゲルマンが冷静に聞き返す。首が取れそうなほどに幾度も頷く彼女を見て、 一歩進み出た彼に、冗談じゃないと女が立ち塞がった。
「あたしの家だよ。悪いけど今忙しいんだ。客の相手をしてる暇はないね」
「マルタ。ほんの少しだけ調べさせて欲しい。もしアンジェリアが本当にここにいるなら……」
「馬鹿じゃないのか!? いるわけがないだろ、一体どこに見えるってんだよ。魔女でもない限り、 人間が透明になんてなれっこないんだから」
「その通り。しかし彼女には魔女の嫌疑がかけられている。調べる必要がある」
「女を異端審問にかけるのはあんたの趣味だろ。そんなもんはよそでやれ。あたしは忙し……」
 言葉の途中で、女はハッと顔を上げ、それからギャラリーに向かって忙しなく腕を振る。

「イェスタッ、イェスタ!」

 声を張り上げてそう言うと、女は駆け出し、ギャラリーと一緒になって遠巻きに眺めていた青年の腕を引く。
「あのもうろくばあさんに言ってやってよ! ここにアンジェリアはいないって」
 女に言われ、青年は彼女と玄関口を交互に見やる。それを二回ほど繰り返した後、 彼はゲルマンに向かって頷いた。そんな彼に、ゲルマンは疑いのまなざしを向ける。
「イェスタ、本当にアンジェリアは居ないのか……?」
「見たら分かるだろう」
「人の目を欺くのは魔女の専売特許だ」
「そんなこと言われても困る。アンジェリアは今家で寝ているよ」
「……」

 結局、ゲルマンは不服そうな表情ですごすごとその場を後にする。去り際、「詳しく聞きたいから」と 耳打ちして老婆を連れて行く彼を、マルタは舌打ちして見送った。
「頭いかれてんじゃないかしら」
「あのばあさんはもう年だから」
「私が言ってるのはゲルマンの方よ。明けても暮れても魔女魔女、魔女。取り付かれてるのは一体どっちかしら。 変な嫌疑をかけられて、アンジェリアも良い迷惑ね」
 ブツブツとこぼしながら荒い足取りで玄関口に戻ろうとするマルタの肩に、そっと青年が手をかける。 振り返った彼女が、不思議そうに小首を傾げても、彼は黙りこくったまま、見つめ返してくるだけだ。
「イェスタ?」
「あのさ」
「うん」
「…………」
 無言のまま俯いてしまった青年に、マルタがははんと口の端を持ち上げる。
「何よ。あんたにしちゃ随分可愛い誘い方じゃないの」
「え?」
「分かったわ、じゃあ今夜ね。鍵を開けておくから」
「……いや」
「どうせ旦那は帰っちゃ来ないわよ」
 誘うような声色で囁く女の足下を眺めながら、どうしたものかと青年が言葉を探す。
「マルタ……ちょっと、こっちに」
 結局上手い言葉も見つからず、そのまま女の手を引いて玄関口から遠ざける。

 一方、あわや数センチでマルタと正面衝突するはめになっていた万莉亜は、がちがちに固まってしまった体と震える 足腰を奮い立たせ、慌ててその場から離れる。それからへなへなと崩れ落ち、偶然にも自分を救ってくれた青年の方へと 振り返った。
 その瞬間、彼と、視線がかち合った気がする。
 一瞬でそらされてしまったから、自信はない。

 万莉亜が玄関口から遠ざかると、青年は女を解放し、マルタが扉の中に戻っていくのを 確認してから背中を向けて歩き出す。もう目は合わなかったけれど、徹底して万莉亜のいる方向にすら 体を向けない彼の動作を見て、今のは見えないのではなく、避けられたのではないかと疑問は深まる。

 しかしどちらにせよ、万莉亜に声をかける術はなかった。
 心臓は早鐘を打っているが、反面体は硬直し、声帯はうんともすんとも言わない。

 苦しくて、熱くて、喉が焼けそうだ。泣いているせいだろうか。涙が止まらない。
 一連の出来事に震え上がってしまったせいだろうか。
 それとも、あのイェスタと呼ばれる青年の姿形のせいだろうか。それとも、 聞き慣れたあの声のせいだろうか。

「……どうしてっ」

 死にかけの声帯で、絞り上げるように呟く。

 背中まで伸びた髪を後ろで一つに束ねていたあの青年のブロンドに、胸が痛む。 神様の執念がこもったようなあの美しい面立ちは、かつて他の誰よりも見慣れたものだった気がする。 淡々とした喋り口調の反面よく通るあの声で、かつて幾度も名前を呼ばれた気がする。
 それでも、優しげな瞳でこちらを見つめるバイオレットの瞳が見当たらない。

 晴れた日の蒼天にも似た、澄んだ湖の表面にも似た、あんな青い瞳は、知らない。



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