ヴァイオレット奇譚2

Chapter9◆「始まりの街のエトランゼ―【1】」




 いくつもの映像が、目の前を通り過ぎては消えていく。
 声もなく、わずかな物音もなく、淡々と通り過ぎる映像を、朦朧とした意識のまま眺め続けていた。

 これが俗に言う走馬燈なのだろうか。
 通り過ぎていく映像が、忘れかけていた己の記憶なのだと気付いたとき、ふとそんな事を考えた。

 小さなアパートの台所で、えんじ色のエプロンを着た母が、振り返って笑う。
――『まりあ』
 音のない映像の中で、それでも母の唇は、確かに最愛の娘の名前を紡いでいた。

――……お母さん
 大きなスクリーンの前で足を抱えて座っていた万莉亜が、心の中で返事を返す。不思議と、 痛みはなかった。あるのは、ただただ穏やかに募る思慕。
 ベランダで日曜大工に励む父、田舎で畑仕事にいそしむ祖母、入学式で初めて出会った親友の、 まだ初々しい制服姿。どれもこれも、かつて万莉亜がこの目で見てきた彼らの姿。 忘れかけていた記憶の欠片が、脈絡もなく淡々と上映されていく。

 やがてスクリーンが黒一色に塗りつぶされて、それを眺めていた万莉亜が首を傾げる。
 目を凝らすようにしてじっと見つめていると、それに答えるかのように画面は徐々に辺りの輪郭を写し出し、やっと見えてきた幼い子供の膝頭に、 万莉亜はハッと息を呑む。
 見覚えがあった。
 昔、こんな風にして、ずっと自分の膝小僧を見つめていた事がある。
 やがて、小さな擦り傷がたくさんある子供らしい膝頭の上に、大さな雫が零れると、 突然画面は暗転し、もう何も見えなくなってしまった。
 それでも万莉亜には分かる。
 膝の上に額をくっつけて、まぶたを強く閉じて、小さな女の子は震えている。多分、涙も流している。狭い空間で、必死に体を小さく折りたたみながら、 追い詰められたようにして泣いている。そうしたのを、覚えている。
 たくさんの騒がしい音楽と、荒々しい足音と、人と人とが争う音。それから、誰かの鈍い断末魔。
 あの時は、たくさんの雑音が聞こえていたような気がするけれど、この映像には音がないから、何も分からない。ただ、 じっと時をやり過ごすだけの暗闇。

 その映像にじっと食い入りながら、緊張のあまり握り拳を作る。
 それでも、心は不思議と痛まなかった。悲しいけれど、辛いけれど、身を引き裂くような痛みを感じる事はなかった。そしてそれは、 祖母の葬儀の映像でも同じだった。

 これが、自分の望んだ結末だったのだろうか。そんな風に考える。
 あらゆる痛みから、逃れたかった。もう限界だった。何度も立ち上がるには、疲れすぎていて、 痛みを感じるのも、もう限界で、とうに傷だらけの心がついに白旗を上げた。

 痛みに立ち向かう気力も、乗り越えんとする決意も枯れ果てて、それをあの人に見透かされた。
 傷のないまっさらな魂へ。生命力に満ちあふれていたかつての魂へ。痛みなど知らない生まれたての魂へ 還りたがっている。傷のついた心を捨てたがっている。魂を放棄しようとしている。

 誘われるようにして辿り着いたあの場所で、あの人は、そんな自分を責める事もせずに、 ただ願いを叶えようとしてくれているのが分かった。
――『万莉亜』
 そう言って自分の名を呼んだ彼の声を、知っていた気がする。
――ありがとう
 お礼を言って、そのまま目を閉じた。意識が、途絶えた瞬間には、もうここにこうして座っていた。

 そして今、ぼんやりと俗に言う走馬燈のようなものを眺めている。
 多分、自分は死んだのだろう。それ自体を望んでいたという自覚はなかったが、 もう立ち上がるつもりはなかったのだから、同じ事だ。

 しかし死後とはいえ、意外にはっきり自我は残っているもので、万莉亜は終わらない上映会にいつしか 焦りを覚え始め、一体いつまでここでこうしていればいいのか、ひっそりと途方に暮れたりもしている。辺り一面は 暗闇で、三途の川も、道先案内人も見当たらない。
 あるのは、目の前の大きなスクリーン。終わらない走馬燈。


 ふと、場面が切り替わる。
 映し出されたのは、窓の外を物憂げに眺める一人の青年。

 彼は目の前の少女の視線など意にも介さず、そっぽを向いたまま頬杖をつく。映し出されたその横顔に まるで見とれるように固まってしまった画面。
 恥ずかしくて、万莉亜は目を覆いたくなった。これは、かつての万莉亜の視線。こんな風に、あけすけに彼を見つめていただなんて 知らなかった。
 彼の唇が、言葉を紡ぐ。音はないけれど、覚えている。
――『もう秋だったんだね』
 あの日、初めて出会ったあの日、とても無気力な声色で、彼が言った。
 覚えている。どんな些細な事も、まだ覚えている。彼の笑顔も、表情の癖も、落ち着いた声も。映し出される その映像の全てを、その細部まで覚えている。
 場面は変わり、今度は『飽きたね』と彼の唇が紡ぐ。見切れている背後の景色は、あの公園から見える分譲マンションだ。 シリルのために三人して幾度も通い詰めたあの小さな公園に、辟易して彼がそう言った。万莉亜も、笑って頷いたのを覚えている。
 『刹那的なんだね』と、彼が苦笑する。覚えている。こんなにも、鮮明に。
 再び場面は変わり、目の前の青年は、思い切り顔をしかめながら、苦しそうに言葉を吐き出す。
――『……君が好きだ』
 言いながら、後悔している彼の顔を覚えている。

――嘘つき
 気がつけば、心の中で言い返していた。
――『君はかっこいいよ』
 嘘つき。
――『人間の一生は短いから、出来るだけそばに居たいんだ』
 嘘つき。嘘ばかりだ。自分を選ぶつもりなど、なかったくせに。

――『多分ずっと、アンジェリアを、愛していたんだと思う』
 そう。それが、たった一つの本当の言葉。きっと、そうなんだ。

 胸が、痛む。ずっと、あの繊細な紫の瞳が画面に映る度に、胸が痛んでいる。 涙も、流れている。
――どうして……
 この魂は、もう痛みを捨てたはずなのに、彼の姿を見る度に切なくて、想ってもらえなかった事が悲しくて、 彼の心を縛るあの人が羨ましくて、こうなってしまった結末に悲観して、心が痛む。
 もっと穏やかな気持ちで居たいのに、もう傷つけられるのは我慢ならないのに、どうしても痛む。

 約束したのに。万莉亜の魂はもう、あらゆる痛みから解放されたはずなのに、どうして。
 あの時、万莉亜の望みを、あの人は確かに聞き入れてくれたはずだった。万莉亜の望みを。

――……私の、望み……?

『今度は、普通に出会うの』
 突如スクリーンに、自分の顔が映し出されて、万莉亜は思わず目を見開いた。 紡がれた言葉は、まだ記憶に新しい。これは、あの人の視線だろうか。
『人間のクレアさんが、私に見向きもしなくても、私、きっとまた好きになる気がする』
 泣き出しそうな顔で、無理に笑っている自分の表情を見て、万莉亜は思わず目を伏せたくなった。 それから、はたと気付き、慌てて顔を上げる。

――違う……

 そういうことではない。
 彼の事をまた好きになる。そんな気がする。でも、この心を痛めるだけのこの恋心を、抱えたまま消えていくつもりなんて無い。 全ての痛みから、解放されたいのだ。

「違うの、おじさん……っ、違うの……私はもうっ……」

 暗闇の中、慌てたように立ち上がり、声に出して呼びかけてみる。
「お願い、コレも消してよ……もう痛いのは嫌なの……っ!」

 叫んで、万莉亜は崩れ落ちる。 大きなスクリーンの中で、金髪の美しい青年が、優しげに微笑み、その残酷さにまた胸が悲鳴を上げる。



******



 無知の第一世代から、臆病な第二世代へ。
 裏切りの第三世代から、復讐の第四世代へ。
 そして今、全ての業を背負う終わりの第五世代へ。

――ねぇ……

 血肉を食らう化け物どもの、生き残りをかけたカニバルが始まる。
 この身の淘汰も繁栄も、所詮は喰うか喰われるか。

――どうしてこんな意地悪をするの……

 それならば万莉亜。
 お前はあの異形のものに、何と名をつける。

――私が彼を呼ぶその声に、何の意味があるって言うの。彼が無くした名前を、私は呼べない。 分かっているくせに、どうしてこんな意地悪をするの。

 お前はあの異形のものに、何と名をつける。

――私、分かったの。
 あなたが名前をなくしたのは、それを呼んでくれる人をなくしてしまったからなのね。
 私は、彼が望むのなら、彼の名前を、この魂の限り、忘れないと誓っても良かった。だけど、 そんなことには何の意味も無かった。
 あなたもあの人も、呼んで欲しい人は、いつだってたった一人だった。

 お願い。
 これ以上、私を傷つけないで。



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