ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【3】」




 午前0時をいくらか過ぎた頃、「泊まっていけば」とすすめるハンリエットに首を振って、 万莉亜はホテルを後にした。
 夜の冷たい空気が頬を刺す。

 おそらくはずっとハンリエットとの会話に耳をそばだてていたであろう瑛士が、 不安げな顔で後ろからついてくるのは分かっていたけれど、何か言葉をかけてあげられるだけの余裕などなかった。

 色んな事があって、そのうちのたった一つだってまだ受け入れられていない。日々をのうのうと過ごしている自分が、 どこか他人のような気さえして、抜け殻の心のままぼんやりと呼吸を繰り返していた。
 でも今、はっきりと突きつけられた現実に、目が覚めた思いで空を見上げる。

──帰ってこないんだ……

 すぐにそう悟った。初めから、帰ってくるつもりなどなかった。いや、そうではなくて、もともと、 あの人の帰る場所はここではなかった。だからあの人は、帰っていったのだ。本来の、あるべき場所に。その結果が 「死」であっても、きっとあの人は、それを躊躇わない。そんな風に思った。

「おい、どこ行くんだよ」

 片手を上げてタクシーを止めていた瑛士が、フラフラと歩き出した万莉亜に声をかける。 慌てて少女の後を追い、その腕を引いた。泣いているのかと思ったけれど、そうではなかった。ただぼんやりと、 いつものように焦点の合わない瞳でこちらを見上げている。

「……どうしたんだ?」
「行きたいところがあるの」
「どこだよ」

 学校、と小さく万莉亜が呟くのを聞いて、瑛士は舌打ちする。冬休みの間、音沙汰のない主人を捜索するために日本を離れる事にしたルイスから、 その期間はあの学園に近づかないようにと言い聞かされていた。思わず舌打ちが零れたのは、早速その言いつけを破らなければならない 煩わしさからだ。

「どっちにしたって歩いちゃ行けないだろ」

 そう言って、ぐいぐいと万莉亜をタクシーへ押し込める。されるがままの少女は、 後部座席の奥に詰めながら、少しだけ瑛士に微笑んだ。



「……お前、いつまでそうやってるつもりなんだ」

 タクシーの窓から見えるイルミネーションの流れに目をやり、責めるでもなく瑛士が言った。 あの日目覚めてから。祖母が亡くなったあの日から。クレアが彼女と別離を決めたあの日から。万莉亜はずっと塞ぎ込み、伏せたまぶたは 足下ばかりを見つめていた。それを責めるつもりはなかったが、やはり辛らつな言葉には変わりはなく、 俯いていた万莉亜の気が張り詰めるのが伝わる。

「瑛士くんは、……これからどうするつもりなの?」
「は?」
「これから、どうするのかなって」

 不思議な質問だった。しかし、万莉亜の言う「これから」はまぎれもない未来を指しての言葉だったので、 いくらか慎重になってしまう。

「そんなのわかんねぇけど、まだ見てないもん、たくさんあるからな。そのうち世界一周旅行にでも旅立つかもな」
 万莉亜が頷く。
「その後は……まぁ、そん時考えるよ」
「……そっか」
「お前はどうするんだよ」
 そう言うと、万莉亜はふと視線を逸らして、正面の背もたれを見つめる。

「私ね、ずっと夢を見ていたんだ」
「……」
「そこでね、昔のクレアさんを見たの。上手く言えないけど、何か分かったんだ。私とクレアさんは似てるんだって」
 青い瞳のイェスタ。あれを、彼を過去とは呼ばないのだろう。あれは、まだ彼が生きて、苦しめられている現実。 万莉亜が未だに、狭く暗い押し入れに閉じ込められているのと同じように。
「同じ。昔の事に縛られて、昔の傷にこだわって、それを乗り越えるためだけに生きてる。それだけのために、人生を生きてる」
「……万莉亜」
「だから私たち、未来の事は話せなかった」

 自分の痛みを誤魔化して、そんなものは痛まないふりをして、手を繋いだけれど、結局痛みにしゃがみこんで手を離してしまう。 彼はそうした。それを恨んだけれど。
 彼の痛ましい傷に、見ないふりを決め込んでいたのは万莉亜も同じだった。

「もっと話をしなきゃいけなかった。嫌がられても、踏み込まれたくなくても、結局同じ結末だったとしても、私たち、話をしなきゃいけなかったのに、 目を逸らしていたのは私も同じだったの」

 静かに語る万莉亜を、瑛士は不満顔のままに見つめる。

 自分を責める万莉亜が、悟ったような口調なのが気になった。もう全て終わったことのように語る彼女は 穏やかだったけれど、どこか絶望を漂わせている。そして、自分を責めているにもかかわらず、僅かに伝わる静かな怒り。

 何かを言おうと瑛士が口を開きかけたところで、タクシーは目的地へと到着する。さっと 会計を済ませて車を降りてしまう万莉亜の素早さに少年は慌てた。

「お、おい万莉亜。待てよ」

 足早に中庭の方向へ急ぐ万莉亜の背中に、瑛士の言葉は届かず、彼女は一心不乱に目的の場所へと急ぐ。



******



 二人が見下ろす花壇には、赤茶色の土が綺麗にならされているだけで、花はひとつも見当たらなかった。 いつも隙がないほどに手入れされているはずの花壇に見慣れている二人は、少し寂しいその光景に違和感すら感じる。
 ここに万莉亜が埋められていて、クレアとシリルがその花を土ごと掘り返したことは記憶にまだ新しいが、良い思い出とは 言い難いので、瑛士は口を噤んだ。

「……花、ないな」
 ぼんやりと花壇を見下ろす万莉亜に、おずおずと瑛士が声をかける。
「あるよ」
 おもむろにしゃがみ込んだ万莉亜が、花壇の隅っこを指さして、小さな緑色の芽を見せた。 何もない花壇の中にポツンと頭を見せたそれは、寂しげに空を仰ぐ。

 ちっぽけな緑色の芽に、どういったコメントを返そうか少年が思案していると、 万莉亜は再び瑛士に背を向けて、しゃがみ込んだまま花壇を見下ろす。黙ったまま身じろぎ一つしない彼女に、 少しは気を遣うべきかと考えて、少年は万莉亜の側を離れて歩き出した。
 色々と、一人で考える時間が必要なのかも知れない。

 ハンリエットの嘘にはまんまと自分も騙された。
 リンが指先を置いていったから、当然クレアもそうしたのかと思っていた。でも、今日の話を盗み聞く限り、 どうやらそうではないらしい。少なからず、瑛士にも衝撃的な事実で動揺している。
 帰るつもりはないのかも知れない。万莉亜がそう思うのも当然だった。

 クレアが何を考えているのか分からない。
 目覚めない万莉亜の前で、「アンジェリアを探す」とだけ告げ出て行ったあの男の、その決意に秘められた真意も 分からない。殺しに行ったのか、愛しに行ったのか、心中をしに行ったのか。
 瑛士はまだ女を愛した事がないし、自分を雁字搦めにするような過去もない。過去のために今を生きていると言った 万莉亜の言葉でさえ、よく理解は出来なかった。



「……聞こえてますか」

 ほとんど囁くような声で問いかける。暗闇に決して染まる事はない、不自然なほどに瑞々しい緑色をした芽が、 微かに揺れたような気がしたけれど、定かではない。それでも、聞こえているはずだと、万莉亜は続けた。

「あなたの名前が分からないから、何て呼んだらいいか、分からないんです。……私、あなたが どうして私にあんな夢を見せてくれたのか、分かりました」

 夢と呼ぶには、あまりにもクリアな情景。でも、過去と呼ぶにはいささかの抵抗があった。 誰かの歴史に、土足で踏み込むような真似をした自分を恥じているのかもしれない。たとえ、不可抗力であっても。

「でも、……あれは、ただの冗談だったんですよ。過去に戻ったって、何が変えられる訳じゃないもん。 私が人間のクレアさんに会ったって、……無理なんです。分かってたんです。……だから、ただの冗談だったんです」

──「万莉亜」

 風に乗るように、つかみ所のない音が万莉亜の名前を紡ぐ。気をつけていないと、 容易く消えてしまいそうなその音を、確かに拾って万莉亜が微笑んだ。

「……みんなのことを、守ってあげて。あなたが何者でも、私は信じてる」
──「万莉亜」
「私はもうダメです。もう……疲れちゃって……なんだか、考えるのも嫌なんです」
──「万莉亜」
「クレアさんは、ずっとアンジェリアのことが好きだったんですね。あなたに見せて貰った夢で、思い知らされました。 すごく強い感情だった。あれが、ずっとクレアさんを縛っていたんですね。納得は……まだ出来ないけど、でも 諦めは付いたんです。……だって私、もう側にはいられないから」
──「なぜ。万莉亜」
「……だって私、いつかあの人を傷つけるから」

 柔らかく微笑んでいた彼女が、少しずつその口角を下げて、口元を真一文字に引き締める。 息する事すら耐えているような、張り詰めた表情で花壇を見下ろせば、小さな芽が、そんな彼女を真っ直ぐに見上げた。

「私、ひどい人間なんです。大事な人に八つ当たりするような……ひどい人間なんです。 謝れないまま、もう二度と会えなくなるくらいなら……その前にみんな、私の前からいなくなって欲しい。もうこれ以上、 後悔が増えるのは嫌なんです。なのに、そう思ってるのに、後悔する事ばっかりで」

 涙が零れる。堰を切ったように。

「まだ未練がある……でも、もうその事を考えるのも嫌なんです」
──「万莉亜」
「みんなを守ってください……お願い、クレアさんを……、私はもう、会えなくてもいいから」
──「万莉亜」
「あの人が死んじゃうなんて嫌だ。どうしてアンジェリアは、そんな風にしか愛してあげられないの……」

 愛されてるのに。誰よりも、クレアに愛されてるのに。どうして彼女は、遙か昔から彼をそんな風にしか堕とせないのか。 それが彼女の愛し方だというのなら、あまりにも悲しい。 でも、彼を優しく包めないのは、自分も同じだと、万莉亜は唇を噛む。
 余裕がない。自分の痛みに身をよじるばかりで。

──「万莉亜」
 壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返す声に気を取られていたせいだろうか。
 ふと感じる背後の気配に、驚いて万莉亜は振り返った。

 黒いサングラスをかけたスーツ姿の男性がこちらをじっと見据えていて、それが誰なのか思い当たるまでに時間がかかった。

「こんばんは。万莉亜さん」
「……あなた、は」

 背筋に寒いものが走る。久しぶりに目にする彼は、相変わらずよくいるサラリーマンの風貌でいて、その恰好には 不似合いなサングラスが薄ら寒いほどに浮いていた。

「……は、春川……さん?」
「覚えていてくださったんですね。光栄です。お祖母さんの事は、残念でしたね」

 少しだけ口角を上げて小太り気味の男が言う。延命をしてやるべきだと、そう告げて彼が突きつけてきた小箱。 危うい選択に、手を伸ばしかけた自分。忌まわしい記憶が、彼の姿と共に蘇る。



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