ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【4】」




「これが噂の……第一世代、ですか」

 万莉亜がしゃがみ込んでいる、そのすぐ側の花壇を覗き込んで、興味深げに春川が言う。

「いや、始まりの赤ん坊、というべきかな」
「……はじ、まり?」

 つい口から零れてしまった少女の言葉に、ぴくりと反応を示して春川がサングラス越しに視線を合わせた。 それだけで震え上がってしまいそうな気持ちを浮かべてしまわないように、万莉亜が奥歯を咬む。

「ご存じないですか? 始まりの赤ん坊。セロと呼ばれる、我らが始祖です」
「始祖……」

 万莉亜の脳裏に、初老の男性が浮かぶ。花壇に向かって言葉をかけている時、 万莉亜は彼と会話をしているつもりだったし、実際そうだった。それを不思議に思う事はなかった。 あのヴァイオレットの瞳をした校務員が何者なのか、考える事にも疲れていたのか、それとも、 自分は何か不思議な彼の力によって惑わされていたのか。そのどちらもだったのか。
 ただ、ぼんやりとした彼の存在を、第三者に聞かされるのはとてもおかしな気がした。

「私も、クレア・ランスキーも、リン・タイエイも、アンジェリアですら、彼によって作られた。 彼は全ての始まりとなった肉片です。セロと、第三世代のクレア・ランスキーが密やかに通じているのも、 我々の間では有名な話だ。亡きヒューゴも、ずっとセロを追っていた。否、同族ならば、誰だって喉から手が出るほどに 彼が欲しいはずだ」

 あまり万莉亜が踏み込まずにいた、彼らのルーツの話だ。なぜそれを自分に話すのか、 なぜ彼はこんなにも異様な気を自分に向けて放つのか。万莉亜には分からなかった。ただ、恐怖だけがこみ上げる。

「力を得たい者。富と名声を得たい者。過去を払拭したい者。何でも良い。何でも叶う。 それだけの力を、始まりの赤ん坊は持つ。世界の理すら超えた存在。万物を司る、天上からもたらされた神の欠片。 いや、神自身か。全てを支配する力を持ちながら、己のエゴを持たないその存在は、独裁者よりも遥かに崇高な、 神と呼べる存在に等しい」

 熱を帯びてきた春川の言葉に、ただじっと聞き入り、それでも万莉亜は震え上がった下半身に力を込めた。この場から 逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。

「捕虜として彼らの側にいる事で、いくらか知り得ない情報を手に入れる事が出来ました。 とても有意義な数ヶ月間だった」
 満足したように頷いて、春川が膝を折り、しゃがみ込んだ万莉亜に目線を合わせる。驚いて、 びくりと体を震わせる少女に、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「クレア・ランスキーは望まぬ形で不死の体を手に入れた。そのいきさつをあなたはご存じですか」
「……え」
「あのお気楽者のリン・タイエイが、ぽつりと零してくれたのです。広東語を理解出来るのは私だけですから、 気安い話し相手だったのでしょう」
「……」
「ある夜、妻の出した夕食に、混ざっていたんです。彼を地獄の底へ突き落とす、件の肉片が」
「……」
「真っ直ぐだった青年は、いつか立派な大人になる事を夢に、日々を過ごしていた。それも全て、 世間から迫害され続ける妻を守りたいという、痛々しいほどの純粋な思いから来ていた。彼は、誰よりも早く 大人になりたかったんです。ところが妻は、彼に永遠の少年で居て欲しかった。二人のすれ違いは 決定的でしたが、それも、お互いを愛し合う故だったとは思いませんか」

 幾分芝居がかった口調で、春川が言う。万莉亜は、唇が震えて上手く言葉が紡げなかった。

「クレア・ランスキーは妻のひどい裏切りを許せなかった。彼は、再び人間になる事を望んでいる。 さて、問題はここからです」
「……」
「果たして彼は、一体何のために、誰のために己の成長を求めているのでしょうか」

 誰のために。
 万莉亜が、静かにまぶたを伏せる。答えなんて、分かっている。

「明白です。アンジェリアのためだ。彼はアンジェリアのためにあの姿で何世紀も生き、 同じ女のために儚い願いを胸にしたため続けている。それもこれも、ひたむきな愛がなせるわざだ。 ロマンチックだとは思いませんか」
「……どう、して……私にそんな事を言うの」

 かろうじて絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「あなたの痛みは、計り知れない。あなたは、彼の長い人生の、ほんの一時の慰みにすぎなかった。 それはあまりに屈辱的。あまりに非道な行いだとは思いませんか」
「……」
「それでなくとも、あなたの人生は、奪われてばかりだというのにね」

 言葉とは裏腹に、春川の声は優しかった。甘く誘導するように、万莉亜の鼓膜を包む。彼が、 祖母を助けなさいと囁いたあの時と全く同じだった。

「……それで、今度は、私を何に利用するつもりですかっ……」

 虚勢を張って、語気を強める。わずかに、春川の眉がひそめられた。

「利用だなんてとんでもない。私はあなたに一つの可能性を示したいだけです」
「……かのう、せい?」
「そう。あなたは、あのクレア・ランスキー以外に、唯一セロと通じる事の出来る無二の人間だ」
「……」
「見ていましたよ。あなたとセロが、仲睦まじく会話しているところを」
「ち、違う!」
「あなたは神に愛された人間だ。何だって出来る。望めば、クレア・ランスキーだって容易く手に入れる事が出来るでしょう。 あの歪んだ女に、彼を譲るのは忍びないでしょう? 我慢ならないはずだ」
「……」
「あなたはセロを手に入れるべきだ。その手助けを、私にさせて欲しい」
「私に……どうしろって、言うんですか」
「セロを食べるのです」

 さらりと告げられた言葉が、咄嗟には理解出来なくて、万莉亜は呆然と相手を見上げる。

「たったの一欠片で良い。それだけで、あなたはこの世でアンジェリアと渡り合える希少な第二世代として 生まれ変わる。あの女と互角の力を得たあなたならば、彼女の前で命を断つほかに術がないクレア・ランスキーを 救う事が出来る」
「……な」
「悲しい運命の螺旋から、彼を解き放ってあげたいとは思いませんか?」

「思うわけねぇだろ」

 呆れたような声が、張り詰めた二人の間に割ってはいる。
 飛び上がるようにして驚いた万莉亜が振り返った先には、眉をつり上げて春川を睨み付けている瑛士の姿があった。

「春川。てめぇ何がしたいんだよ。つーか、どうやって逃げ出したんだよ」
 春川の身柄は、クレアとリンが発った後ルイスの監視下に置かれていたはずだが、 そのルイスまでもが不在となってから、彼の所在は瑛士の知るところではなかった。ハンリエット辺りが きっちりと監視していると思っていたが。
──あいつも今腑抜けてるからなぁ……
 すっかり意気消沈してしまっているハンリエットの姿を思い浮かべて瑛士がそっとため息を零す。

「万莉亜から離れろ。これ以上余計な事吹き込みやがったら海に沈めるぞ」

 威嚇する瑛士に肩をすくめて、春川は立ち上がった。

「あなたは、現状に満足していますか? 戸塚瑛士くん」
「はぁ?」
「どういう訳か、私たち一族は古来より日陰者として生きてきた。おかしいとは思いませんか。どうして ただの人間よりもずっと生物として優れている私たちが、人に遠慮し、肩をすぼませ歩かなければならないのか。 それで良しとするあなたたちを、私はどうにも理解出来ない。あなた方が、私の主張を理解出来ないのと同じようにね」
「答えは簡単だ。お前みたいな欲深なやつは同族によって淘汰されてきたからだ」
「なるほど」
「第二世代も、第三世代も、繁栄を望んでいない。欲深いのは、そっから下の世代だからだよ」
「よく分かりました。でしたら私は、反旗を翻しましょう。我らが体に流れるこの赤い血は、尊ばれて然るべきだ。 それを誰も望まなくとも、この血の繁栄を、今私が望みます」

 言い切って春川が伸ばした手が、横で怯えていた万莉亜の腕を掴む。
 咄嗟に走り出した瑛士は、しかし突然の背中の衝撃にそのまま地面に倒れ込んだ。

「悪いな、兄弟」

 茶化したような声の方向へどうにか視線だけを向ければ、見た事もない 男がこちらを見下ろしていた。男の瞳はバイオレットだ。気付いた途端に、強烈な匂いに目眩がする。

「お前……」

 第四世代だと、すぐに分かった。否、今の今まで、この匂いに気付けなかった方がどうかしていたのだ。

「春川、こいつどうしたらいいんだ」
 チンピラのような口調で男が問えば、春川はにっこりと微笑んで首を振る。
「最早絶滅寸前の希少な第四世代です。殺さないでください」
「了解」
 そう言って、男が瑛士の背骨めがけて思い切り足を振り落とす。少年は僅かに呻いて その衝撃を受け止めた。
「て、てめぇ……格下にいいように使われて、恥ずかしくねぇのかよ!」
「別に。こちとら上手い話に乗っかっただけで、使われてるつもりもねぇし。 始まりの赤ん坊だろ? おいしいよな。誰だって、欲しいはずだ。特に俺たちのような、 不遇の第四世代はな」

 そう言ってにやつく男の背後から、さらにいくつかの足音が聞こえてきて、瑛士はごくりと喉を鳴らした。 同じ世代の匂いがする。
──冗談……だろ
 第四世代は、香港のリン・タイエイの助力でかなりの数を排除してきたはずだ。
 しかし、その作業の一貫に春川が関わっていたのも事実だった。彼は、例の団体の活動で相当の人数の 第四世代とコンタクトを取れる立場にあった。まさか、隠し持っていたのだろうか。いざというときのために。 戦力になりうるだけの数を。

──ちくしょう……っ
 捕虜だと思って油断していた。邪魔な第四世代を一掃するのに便利な知識を持っていたから。広東語を 自在に操る彼が通訳として便利だったから。その後逃がすつもりなど毛頭無かったから。そんな余裕でもって、 彼を内側に引き入れていた。寝首をかかれそうになっていたのにも気付けなかった。

「放せっ、てめぇら! ぶっ殺すぞ!」
 地面に押さえつけられたまま、それでも少年が威勢良く叫べば、押さえつけていた男と、 それを囲うようにして立っていた数人の男たちも笑った。
「熱くなるなって。利用してやろうぜ、あの馬鹿な第五世代をよ」
「っ、何言ってんだ! 利用されてんのはどう見てもお前らだろうがっ」
「今はそう見えるだけさ。しかし実際セロを手に入れるのは俺たち第四世代だ。何も 持たずに生まれてきた俺たちへの、あれは天からのギフトだよ」
「はぁっ!?」
「やっと俺たちがトップに立つ時が来たんだ。ふざけた真似してくれた第三世代へ、やっと復讐出来ると思わないか」

 すっかり春川に感化された様子の悲しい同胞を見上げて、瑛士はもう言葉も出なかった。
 仕方がないのかも知れない。自分の世代は生まれた時からコンプレックスの塊なのだ。悲しいほどに 一縷の望みをかけて手にした肉は、しかし自分に奇蹟の力を与えてはくれなかった。かける期待が大きければ大きいほど、 絶望は深く、コンプレックスは肥大化する。なぜなら、奇蹟の能力を与えられなかったのは不運にも己の世代だけだと知ってしまうからだ。 そしてその元凶である一つ上の世代は、全てを手にしていると知ってしまうから。
 瑛士にだって、その気持ちは痛いほど分かる。
 それでも彼らと相容れないのは、結局、どこまで行ったって、始まりの赤ん坊まで遡ったって、満足している者など どこにもいないと知っているから。皆、あれが足りないこれが足りないと嘆いている。

 もう、誰を羨ましいとも思えない。



「嫌っ……」

 自分の手を引こうとする春川に、目一杯の拒否を込めて叫んだ声があまりにも弱々しくて、万莉亜は もう一度声帯を振り絞った。

「やめてっ! 放してっ!!」
「万莉亜さん、あなたには、理解して頂きたい。私の価値、あの少年の価値。この血の価値を。それをもってしてもなお、 あなたの価値は計り知れない」
「やめてっ、やめてっ!!」
「あなたは唯一セロに認められた人間だ。彼に声をかけ、かけられることが許された唯一の……っ」
「嫌っ! そんなの知らない、放してくださいっ!」

 頑なな態度の万莉亜にため息をつき、「話しあう時間が必要だ」と呟くと、春川は万莉亜を引き摺るようにして歩き出し、 校内の隅にいつの間にか止められていた黒い車に向かう。

「万莉亜っ!」

 少し離れた場所で押さえつけられていた瑛士が、切羽詰まったように万莉亜の名前を呼ぶけれど、 腕1本だって自由に動かせない状態は変わらない。どこからかわらわらと集まりだした同胞の数は、今や 両手では足りぬほど。その誰もが、にやにやと楽しげに事の成り行きを見守っている。

「ちくしょう、春川! てめぇっ! 万莉亜をどうするつもりだっ!!」

「物騒な物言いはやめてください。まったく、どいつもこいつも……分かっちゃいない」
 あらん限りの声を張り上げ罵倒を続ける瑛士を一瞥し、ブツブツと不満そうに零しながら自分を引き摺る春川から逃れようと、 必死に身をよじる。しかし圧倒的な力の差に、万莉亜と待機している車との距離は近づくばかりだ。

「放して、お願いだから……っ」

 純粋な恐怖があった。
 それから、一度は彼の誘惑によろめいてしまったあの忌まわしい記憶が蘇る。春川が 突きつける選択肢は、あまりにも利己的で、それでいてあまりにも甘美な夢。彼はいつだって、 一番深い傷口を抉ってくる。もしアンジェリアから彼を取り戻せたら。彼はいつだって、一番甘い夢をちらつかせる。 本当に怖いのは、彼によって引きずり出される自分の醜い欲望なのかも知れない。

──もう嫌っ……!

 ほとんど衝動的に伸ばしたもう片方の腕が、春川の手に爪を立て、肉を抉る。そんな 万莉亜の予想外の行動に一瞬の気を取られ、春川の緩んだ指先から逃れるようにして万莉亜は駆けだした。

「万莉亜さんっ!」

 肩越しに叫ぶ春川の声から、躍起になって距離を取ろうと走る。瑛士を捉えている5、6人の男たちが 自分に向かって駆け出す姿も見える。募る焦りからもつれた足は、すぐに絡まり万莉亜は地面に頭から倒れ込んでしまう。 咄嗟に立ち上がろうと腕を立てた瞬間、怯えきった下半身に全く力が入らない事を知って万莉亜は絶句した。

「や、やだ……、来ないでっ」
「落ち着いてください万莉亜さん。私は……」

 こちらに近寄りながら穏やかな笑みを浮かべ宥め賺そうとしていた春川が、ふいに言葉を切る。唐突に黙り込み足を止めた彼を、 万莉亜は怯えた瞳で見つめていたが、やがて彼が一歩後退するのを見てつい眉をひそめる。無防備な獲物を前にして、 さらに一歩後ずさる春川は、もう笑みを浮かべてはいなかった。お互いがお互いの出方を伺うような、奇妙な沈黙の後。


「君たち全員、一人残らず、覚悟はいいかな」


 背中から聞こえてきた声に、全身の金縛りが弾けるのを万莉亜は感じていた。



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