ヴァイオレット奇譚2

Chapter11◆「聖なる夜とヴァンパイア─【5】」




 深い深い傷を抱えている。
 痛みを堪えようと、君はしゃがみこんだ。

 いつか立ち上がろうと胸に決めてしゃがみこんだ。そして時は過ぎるだろう。


 万莉亜。私が君に見せたかったものが、君に正しく伝わるといいのだけれど。

 人ではない美しい女を、青い瞳の少年は愛したのだろう。そして強く憎んだのだろう。それから気の遠くなるような 年月を、しゃがみこんだままに彼は生きたのだろう。
 万莉亜。その目を開いて見つめて欲しい。
 君の瞳が映す事実を、君はどう受け止めるのだろう。

 いつだって伝えてきた。いつだって、伝えたいのはこれだけだった。
 万莉亜。時は不変を許さないけれど、果たして君は、それに気付く事が出来るだろうか。
 その目を開いて見つめて欲しい。

 長い年月を経て今、かつての少年は立ちあがる。青い瞳は色を変え、人ならざる者へと姿を変え、君のために立ち上がる。

 万莉亜。

 私が君に見せたかったものが、君に正しく伝わるといい。



******



「君たち全員、一人残らず、覚悟はいいかな」

 月の光に煌めく金髪が、髪の祝福を受けたようにまばゆく輝いていて、思わず万莉亜は目を細めた。
 万莉亜の姿を捉えて微笑む彼の顔に、こちらを鋭く睨み付けるあの青い瞳の少年が重なる。 あの日のイェスタが今この目に映るクレアだと言うのならば、今自分に向けられた彼の微笑みは、きっと時が与えてくれた優しい奇蹟なのだろう。

「ク、レア……」

 声を失ってしまった万莉亜よりも先に彼を呼んだのは春川だった。ピクリと眉を動かして反応を見せたクレアは、 ゆっくりと歩を進め、脱力している万莉亜を横を通り過ぎ、微動だにしない春川の正面に立つ。吐息がかかりそうな 距離まで詰めても、じっと耐えてこちらを見据える春川に、クレアはふと口元を緩めた。

「見上げた根性だね」
「……理解を、得られぬことはもとより承知しています……しかし歴史とはいつだって、だった一人の無法者から始まるものだ」
「なるほど」

 クレアは頷いて、凍り付いたようにこちらを見据える紫の瞳をした若い同胞を、一人一人、見渡した。

「すると彼らは、君が作る未来の柱石予備軍って所かな」
「……数少ない同士となるでしょう」
「そして僕が、それら新しい芽を片っ端から潰すただの老害」
「…………」
「立場がはっきりしたところで、覚悟はいいね」
「……っ」

 妖艶に微笑んだ相手の声色の変化に、咄嗟に春川が体を反転させ駆け出すが、 それよりも早く腕を伸ばしたクレアに引き摺り戻される。首根っこを掴む男の手に込められた容赦のない力に、 春川は思わずうめき声を上げた。

「時代が許せば、君は歴史に名を残す英雄となっただろう。革命の第一人者だ」
「ぐっ……」
「でも残念だったね。生まれてくるのが早すぎたんだ」

 みしみしと鈍い音を立てる首が、やがて限界に達し奇妙な音を立ててくたりと折れ曲がる。

「さて」

 春川の首をへし折りその体を地面に放り投げると、クレアは身を翻し、背後に佇み息を呑んでいた 十数名を見やる。一人一人としっかり視線を交わし、数を数え終わったところで彼は一歩前に踏み出した。

「誰も動くなよ。一番最初に逃げ出した者から食ってやる」

 静かな夜の闇に、彼の声は恐ろしいほど鋭く通り、場はさらに張り詰める。誰一人身動きが取れず、 仲間であるはずの瑛士ですら、身震いした。今目の前にしているのは、確かに見知ったあの男だった。

──なんだ……あいつ……

 纏う気配の禍々しさに寒気が走る。微笑んでいるのは口元だけだ。それだけが唯一、記憶の中のクレアと重なる。 後は全て、まがいもの。そんな風に疑いたくなるほど、彼は禍々しく笑う。

 呆気にとられていた一瞬の後、自分の体を拘束するいくつもの力が消え去り、はたと我に返った瑛士は立ち上がり 駆け出す。入れ替わるようにして伸びてきたクレアの腕を横目に見ながら、足早にへたり込んでいる少女の元へ向かう。 背中で、同世代の若者が上げた断末魔の悲鳴を聞き、思わず歯を食いしばった。

「万莉亜!」
 駆け寄り、彼女の側でひくひくとうごめき横たわる春川から壁を作るようにして膝をつく。とにかく、危機は免れた。 今は一刻も早くこの場から万莉亜を連れ出さなければならない。
「万莉亜、おいっ、万莉亜!」
 呆然と宙を見つめる万莉亜は、容赦なく体を揺さぶる瑛士の声にゆっくりと視線を向け、彼の言葉にじっと耳を澄ませるような 仕草を見せる。彼女がショックから立ち直れていないのは明らかだったので、瑛士も呼吸を整え、ゆっくりと子供に言い聞かせるような口調で もう一度語りかける。

「聞こえるか、万莉亜。しっかりしろ。逃げるんだ」
「……え」
「逃げろ、万莉亜」

 万莉亜の目が驚いたように見開かれる。
 
「ま……りあ……」

 低くかすれたうめき声が、万莉亜の名を呼ぶ。春川のその声に瑛士はさっと身を翻し、万莉亜を庇うように立ち上がったが、その脇を 通り抜けて万莉亜は走り出した。

「お母さんっ……!」

 悲痛な悲鳴を上げて駆けだした万莉亜は、横たわる春川の体を両手で抱きしめ、聞き取れないほどの甲高い声で言葉にならない 悲鳴を上げる。少女の腕の中で、異形の男が薄く微笑むのを瑛士は見た。

「まり……あ……」
「やだ、嫌だっ……どうしてっ!」

 涙で滲んだ視界と同じように、頭の中には濃い霧が漂う。何も考えられない。でも今また同じ悲劇を辿ろうとしている 自分が許せなくて、万莉亜は立ち上がった。
 あの時、一人逃げおおせた事が、そもそもの始まりだった。全ての悲劇の始まりだった。

「まりあ、逃げるんだ……隠れなさい、まりあ」

 異形の瞳が、優しく万莉亜に告げる。嫌だと繰り返し万莉亜はかぶりを振った。もう二度と逃げない。 二度と、自分を置いていく事を許さない。一人残されるくらいなら一緒に連れて行って欲しい。そう願う事が、そんなに罪だろうか。 のちに訪れる後悔よりも、痛むのだろうか。

「万莉亜、しっかりしろよ!」
 強く肩を引いて振り向かせた彼女の虚ろな瞳を見て、瑛士は息を呑む。焦点の定まらない瞳は、 ひどく悲しみに暮れていて、瑛士には見えないもう一つの現実を見据えている。思わず舌打ちをしたのは、 その表情が物語る事態の厄介さに気付いたからだ。

「春川、てめぇっ……!」
 僅かな隙を突いて、万莉亜に暗示をかけていた春川は、瑛士の怒声に勝ち誇ったような笑みを浮かべる。 彼は未だに鈍く軋む首をそっと手で覆い、緩慢な動きで上半身を起こした。回復にはまだまだ時間が足りないのか、 一瞬顔を歪めるが、すぐにそれを打ち消し、口角を上げる。それは先ほどのふてぶてしい笑みとは違い、追い詰められたような、 どこか愁いを含んだ表情だった。

「まるで信用は得られないでしょうが、私はこれでも彼女に敬意を払っている。こんな真似は、出来るなら避けたかった。 事実、私は今の今まで、万莉亜さんの意思を尊重してきた。いつだって、その意思を容易くねじ曲げる事が出来たというのにも関わらず!」
「……てめえ」
「なぜ、なぜ耳を傾けてはくれないっ、なぜ、なぜこの血の繁栄を望まない! 私たちはこの地上に残る数少ない同種ではないか。 なぜ手を取り合わない! なぜ、同種のあなた方が、私たちという存在を真っ向から否定するのですかっ!」

 顔を赤くして、そこいら中に唾をまき散らしながら春川が絞り上げた怒声が、僅かに瑛士の胸に響いた。 彼が力の限りに上げた叫びが、自分ではなく、その後ろにいるはずのクレアに向けられたものだということは分かっていた。 認められたいという、強い願い。強いエゴ。満たされない強いジレンマ。彼もまた、終わりのない苦痛の螺旋に巻き取られ、 逃れられない人の性に絡め取られている。

「まだだ……まだ、終われない。私はまだ……何一つ成し遂げてはいないっ!」
 己の体に鞭打ち春川が立ち上がる。それを捉えようと咄嗟に瑛士が動くより先に、庇い立てるようにして 万莉亜が立ちはだかった。
「やめて……、来ないで……!」
 春川の前で両手を広げ、じりじりと少女が後退する。よほど恐ろしい夢でも見ているのだろうか。 両の目から、ボロボロと大粒の涙を流している彼女の顔は蒼白だった。
「良い子だ万莉亜。そのまま、私を守るんだ」
 今度こそ。

 そう囁いて、春川がよろよろと歩き出す。そんな彼に指一本触れさせまいと、 万莉亜は正面に立つ瑛士をキッと睨み付けてその一挙手一投足を見つめている。

──誰か助けて、助けて……!

 頭が混乱している。玄関が蹴破られるような、何か大きな物音がして、そこから全てが始まった。否、全てが終わってしまった。

──「隠れなさい、まりあ」

 嫌だ。もう隠れない。もう逃げない。

「……い」

 小さく呟かれた万莉亜の言葉に、瑛士が眉をひそめる。

「……ない」

 夢の中で何度も繰り返される惨劇。愛する人の声に、走り出した。訳も分からず走って、飛び込んだ小さな空間の中で、 膝を抱えて、時が過ぎるのだけを待った。耳に通るのは明るい鈴の音だった。それを聞きながら、後悔はすでに始まっていた。 それでも、何度も間違える。何度も繰り返す。
 今度こそ、間違えない。
 決意の瞳で正面の惨劇を見据える。理不尽に奪われていく命と、奪う命と。

「……許さない」

 もう何も、許さない。ただ強く、そう思った。



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