ヴァイオレット奇譚◆番外編

◆淡き恋に捧ぐレクイエム 1




 その夜、恐怖を味わった。
 あんな風に戦慄したのは何年ぶりだろうか。張り詰められた緊張感の中、 今この瞬間、命のやり取りをしているのだと実感させられた。いや、 正直に言おう。 「殺される」と思った。圧倒的な力にねじ伏せられ、悪あがきをする体とは反対に、心は白旗をあげていた。

 スツールに腰掛け、その上で握った拳を恐怖に振るわせながら語る男は、ちらりと 視線を持ち上げ、仁王立ちでこちらを睨み付けているサーラを見上げた。彼女は 色の濃い艶のある眉をわずかにつり上げ静かなる怒りを告げている。男は慌てて視線を逸らし、 握った拳に力を込めた。
 気が強く、人一倍プライドの高いサーラに、今回のことを報告するのは躊躇われたが、 言わないわけにはいかなかった。ついに「家族」を脅かす異端者が現れたに違いない。

 その異端者を、マークし始めたのは三ヶ月ほど前。 全くの前触れもなく、突如強烈な香りがこのラツィオ州全域を包み込んだその日から、サーラを トップにすえた「アリオスティ一家」は緊張状態にあった。

 突如現れたその異端者に、不遇にも最初の接触をしてしまった男は、 あの夜もボスの命に従い、当てもなく町をぶらつく相手を尾行していた。それ以上の命令は下されていなかった。
「突然、振り向いたんだ」
 思い出し、身震いしながら男が言う。

 何てことはない、ただの青年に見えた。
 体つきは華奢で、すらりとした体躯は彼がまだ成長の過程にあることを教える。顔つきも、少年期の面影を残した あどけないもので、けれど造形は目が覚めるほどに美しく、人の情欲を誘う。特徴と言えば、 その程度。目鼻立ちや肌の色から得られる情報は、この青年が美しく、北欧系であること以外に何もない。

「こんばんは」
 白い陶器の人形が、そう言って唇の端を持ち上げる。
 淡々とした口調は冷たく、天使のような外見とは裏腹に 救いようのない悪意が滲んでいた。やがて男は、その青年が怒っていることに気が付いた。
 青年は、男から50メートルほど離れた場所から、ただひたすらに相手のリアクションを待っていた。 普通の人間であるのなら、言葉を交わすに遠すぎるこの距離。でも、「自分たち」にとっては近すぎる距離。 知っていて、青年はひたすらに待つ。
 男は、確かに聞き取った青年の軽快な挨拶に、身動き一つ取れず、額に大粒の汗を滲ませる。 全身の筋肉が硬直し、もはや呼吸すらままならない。この強烈なプレッシャー。強く香る匂い。
「こんばんは」
 再び軽快な声がした。今度は、己の背後から。
 金縛りが解けたようにして振り返った男は、一瞬で自分の背中を取った青年に驚き、 足をもつれさせながら後ずさりをした。そうしながら、どうしようもない失態に気付く。 この匂いの、圧倒的な質の違いに気付くことが出来なかった。もう遅い。 見逃されていたのは我々だった。今この瞬間までは。

「名前はクレア。スウェーデンの第三世代だと、彼はそう言った」
 声を震わせながら告げられた男の言葉に、サーラをはじめ男を取り囲んでいた家族達がどよめく。
「そして彼は、薄笑いを浮かべながら俺の首に手をかけ、力任せにへし折った。 容赦のない制裁は彼の警告だ。近づくなと、そう言っていた。近づかなければ、こちらの領域は侵さないとも」

「冗談じゃない」
 男が黙りこくると、サーラは静かに切り出した。
「我がアリオスティの地に踏み入っておきながら、領域を侵すなだと!?  よくもぬけぬけとっ。たとえ第三世代であろうとも、こちらは断固とした姿勢を貫き、 やつには然るべき制裁を与えなければ……」

 抑揚を堪えながら呟くサーラの声は、取り囲む仲間達には届かない。 みな驚愕に目を見開き、最早ただの伝承でしか耳にしない「第三世代」の名に恐れおののく。
 イタリアのラツィオ州を拠点に、静かに根付いていたアリオスティ一家。サーラを ボスにすえた彼ら一族が、高い知能を持ち、複雑な言語を操り、あらゆる 生物の頂点に立つ「ヒト」よりも遙かに優れた生き物であることは疑いようもない。彼らは「ヒト」には持ち得ない、 不死の肉体を持つ一族だ。
 しかしそのヒエラルキーが、たった一人の異国の青年を前にして無力に崩れ去ろうとしている。
 第四世代という名のアリオスティ一家。彼らの天敵は、この血の祖先に他ならない。



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