ヴァイオレット奇譚◆番外編 ◆淡き恋に捧ぐレクイエム 2 ラツィオ州、首都ローマ。 普段は町まで出るのに車で二時間以上かかる郊外に身を潜めていた万莉亜は、 この日市内まで観光も兼ねてのショッピングに訪れていた。 「はぐれないようにね」 そう念を押すと、名目上は護衛役である赤い目のシリルが頷く。 しかし視線は好奇心のままにあちらこちらと投げられ、足取りは今にも駆け出しそうなほどに浮かれている。 「シリル、はぐれないでよ」 もう一度言って、少女の手を握る。 異端である少女の姿は常人の目には映らないから、 彼女と繋がれた万莉亜の手のその不自然な形に、行き交う人が一瞬注目しては不可解そうな眼差しで通り過ぎる。それでも万莉亜は気にしない。 普通ではない彼らと暮らし初めてもう三年。 長かった黒髪を肩口まで切り揃え、丸みのあった子供のような頬は、いつのまにかシャープで女性らしいラインを描いている。 わずか数週間後に二十歳の誕生日を迎える万莉亜。 短い人生で得た第二の家族は、今日も変わらず彼女の側にいて、 相変わらず人とは異なる生き物としてその異端ぶりを発揮しているが、万莉亜にとってそれはごくごく自然な生活の一部になっていた。 「えっと、ハムは買ったし、ワインも買ったでしょ。あと何かあったっけ?」 「買い物って、食材だったわけ?」 呆れた声に振り返れば、短いスカートから長く伸びた足を惜しげもなく露出させた金髪の美女が眉をひそめていた。 「ハンリエット、どこに行ってたの? 急にいなくなるんだもん」 「靴を見てたの。悪い?」 つんと鼻先をそらしてハンリエットが不機嫌をアピールする。気を許した間柄か、 それとも万莉亜が彼女の見た目と差のない年齢になったせいか、 大人びて見えていたはずのハンリエットは近頃子供のような仕草をしてみせる。 まったくと苦笑して近寄れば、唇を尖らせた彼女がこちらを向いた。 「言ってくれれば見に行くってば」 「当然でしょ。わざわざローマくんだりまで豆だのハムだのを買いに来たわけじゃないんだから」 そのつもりだったんだけどな、と一人心の中で呟いて万莉亜はハイハイと頷いた。 一家が先の拠点であったメキシコからイタリアに移って三ヶ月。その間、家から出ることを一切禁じられていた万莉亜は、 言いつけ通り部屋で大人しくしていた。新しい住み処となった家を掃除したり、語学の勉強にいそしんだり、 インターネットで遠い故郷の様子を覗いてみたり。最近ではキッチンを預かるルイスの手伝いも始めていたので、 それほど退屈はしなかったものの、そんな彼女の護衛を任されたシリルとハンリエットは不満爆発寸前だったらしい。 本日やっとのことで外出許可の下りた時には、二人手を打ち鳴らして喜び、 乗り気でない万莉亜を引き摺って真っ先に首都へと向かった。 「こんなに買うの?」 山ほどの靴を手当たり次第万莉亜に押しつけ会計を促すハンリエットに、唖然としながら万莉亜が言う。 陳列棚を物色中のハンリエットはそれを聞き流してまた一足のブーツを万莉亜の腕の中に放り込んだ。 黒髪黒目の異国の少女が次々に靴を腕に抱えるのを見て、金持ちのアジア人だと判断したらしい靴屋が、万莉亜の横に ぴたりとくっついて早口のイタリア語を捲し立てる。 最近やっとのことでぎくしゃくとした英語を日常会話レベルまで扱えるようになった万莉亜だが、 結局それさえ活用出来ずにへらへらとした笑みを店員に向けどうにかやりすごした。 観光客相手の商売屋だったことが幸いで、万莉亜の必死の英語により荷物を自宅まで送って貰えるよう手配をすませると、 ほっと胸をなで下ろして靴屋を後にする。後はタクシーでも捕まえて家路につくだけだったが、 せっかくここまで出てきたのだからと女三人は通りがかったオープンカフェに立ち寄った。と言っても、 端から見れば日本人女性が一人ぽつんと座っているようにしか見えないだろう。こんな時に瑛士でもいればナンパよけくらいには なるのに、とハンリエットが呟く横で、万莉亜は声をかけてくるイタリア男を頑なに無視してオレンジジュースをちびちびと口に運ぶ。 「ねぇ見てよ」 愉快そうなハンリエットの囁き声に顔を上げると、前方の席に向かい合って座る男女が何やら激しく口論している。 目に涙をいっぱい溜めて男を罵る女。もちろん言葉は分からないが、先ほどから彼女の方があらんかぎりの暴言を言い放っていることは 伝わる。人や国は違えど、男女の修羅場において繰り出される文句など、一千年前から使い古されたものばかりに違いない。 「男が浮気したのよ」 ご丁寧に通訳を買って出てくれたハンリエットをチラリと視線でたしなめると、 行き交う通行人に馴染みのある容姿の日本人観光客を見つけてなんとはなしに目で追う。 海外を転々とする生活には慣れたし、どうしようもない郷愁にかられることも少なくなった。でもその分、 ふと湧いてくる強い違和感は何なのだろう。 異国の果てで、一体自分は何をしているのだろう。そんな疑問が唐突によぎる瞬間がある。 しかし大抵の場合、疑問は万莉亜の頭上を一瞬通り過ぎては音もなく掻き消される。 聞き慣れた優しい声色が、彼女の名前を呼ぶからだ。まるでタイミングでも見計らったように。 「万莉亜」 騒がしい雑踏の中から呼ばれて、万莉亜ははたと我に返った。 ぼんやりとしていた目をまたたき、こちらへ向かってくるコートの男性を見つめる。 けぶるような淡い金髪に、雪のような白い肌をした彼は、 万莉亜と目が合うなり天使の微笑みを浮かべて彼女の名前を今度は唇の形だけで紡ぐ。 故郷の日本でもそうだったし、以前の拠点であるメキシコでもそうだったように、 彼の浮世離れした美しい容姿は人の興味を誘い、居合わせたイタリア人がチラチラとなびく金髪を目で追う。 ふいにすれ違った長身の女性二人組が足早に過ぎ去る彼の背中に何か声をかけた。挨拶のような感じに聞こえたが、 万莉亜には分からない。コートの男性はそれに振り返りもせずに何か早口で放り投げるように返すと、 さらに歩を進めて道に面したカフェにいる万莉亜のもとへ駆け寄る。 「待ちきれないから迎えに来たよ」 そう言ってぼけっとしている万莉亜の手を取り、頬にキスをする。 思わず驚いて身を堅くしたのはここが公共の場だからだ。もちろん、他人のそんな光景は日常茶飯事に目にするのだが、 我が身のこととなればそうはいかない。そんな彼女の態度が納得いかないのか、彼はじっと伺うようにこちらを見つめて、 おそるおそる万莉亜が視線を持ち上げるのを待ってもう一度頬にキスをした。 「あの……、ちょっと」 困ったようにして自由な方の腕を伸ばし、ぐいぐいと距離を詰める彼の体を押しやる。 店内の客は颯爽と現れた天使の動向に釘付けになっている。まるで見世物のような気がして、万莉亜は相手に視線で訴えた。 「なに?」 微笑む相手に至近距離で囁かれて、それに浸る余裕もなく焦りが増してしまう。 「だから、あの……」 「なに、万莉亜」 「あ、の」 「万莉亜、やだって」 助け船を出したのは幼いシリルの声だった。 注文したカプチーノの泡だけを上手に舐め取って遊んでいた彼女が、そう言って男のコートの裾を引っ張る。 仕方が無しに男性は万莉亜から体を引いて肩をすくめた。 「嫌なわけ無いだろシリル。万莉亜は恥ずかしがってるんだよ。ここは人目があるから」 「へー」 どうでもよさそうにシリルが答える。 分かってるなら控えてくれても良いのに、と内心ぶつぶつ言いながら万莉亜は目の前で飄々とほくそ笑んだ相手を一睨みする。 「君が悪いんだよ。一人でお茶はしないって約束だろ」 「せめてハンリエットだけでも見えるようにしてくれたら一人じゃないのに」 さきほど意地悪されたのが悔しくて素直に謝れずに万莉亜が言い返す。 「ナンパが二人組になるだけだ」 まあね、と横からハンリエットがせいせいと答える。味方をしてくれる気はないらしい。 「そんなに心配しなくても、私この国の言葉も分からないから大丈夫よ」 「だからこれ以上ないほど心配なんだよ。まったく分かってないな」 いつの間にか相手の顔から笑みが消えていたのに気付き、万莉亜は慌ててかぶりを振った。 新しい拠点に移ってからまだ三ヶ月。色々と神経質になってしかるべき時期だというのに、 少し軽率だったかも知れない。 「あの……ごめんなさい」 そう言って早々に万莉亜が謝れば、彼は満足そうに微笑んで隣に腰掛けテーブルの上で万莉亜の両手を握る。 「シャワーの時と甘い物を暴食する時以外はもう僕を一人にしないって夕べ言ってたじゃないか」 耳がとろけそうな声音で言われて万莉亜が完全に白旗をあげる。 「……言ってないってば」 それに暴食なんてしてないもん、と小さく付け足して呟く。少なくとも、彼の前では。 「クレア、そろそろ」 いつの間にかカフェの前に止まっていたマセラティのセダンは、最近仲間のルイスが購入したものだ。 少しだけウィンドウを開けて、そこから運転手のルイスが声をかける。シリルとハンリエットはすでに乗り込むところだ。 「帰ろう、万莉亜」 そう言われて万莉亜は頷き、手を繋いだままクレアと後部座席に乗り込む。 助手席でハンリエットの膝の上に乗ったシリルが少し興奮した様子で買い物の話をルイスに言って聞かせている。 それを後ろで聞きながら、万莉亜はそっと隣に座るクレアの肩にもたれ掛かった。というよりも、 肩にまわされた彼の腕の優しい力に素直に従った。人目が無くなれば、甘えることは昔よりも上手に出来るようになった気がする。 「明日は二人で観光しようか」 ふいに小さく囁かれた声が、彼の喉元から震動となって万莉亜の体に伝わる。その音に安心して、万莉亜は目をつぶった。 「ううん、いいの。……観光は、もう少し落ち着いてからの方がいいと思う」 「せっかくローマに来たのに、引き籠もりっきりじゃつまらないだろ? もう邪魔しないから、 明日は思う存分買い物するっていうのはどう?」 「観光がしたいわけじゃないの。買い物も、なんていうか……」 言葉に詰まった万莉亜の顔を覗き込もうとクレアが身をかがめる。その気配が伝わったから、 万莉亜は目をつぶったまま言葉を続けた。 「今日とか、明日のご飯の買い物をすると、落ち着くの。上手く言えないけど、生活してるって思えるから。 地に足が着いた感じがするの。……わかる?」 吐息だけで笑って、分かるよ、とクレアが答えた。 「じゃあ明日は僕と一緒に夕飯の買い物に行こうか。ローマでも、ティボリでも」 「近所でいいってば。確か大きいスーパーがあったはず」 「いいよ。世界遺産は逃げないしね」 そう言って彼が唇を頬に寄せる。 冷たくて柔らかい感触を、今度は固くならずに受け止めることが出来た。 Copyright (C) 2010 kazumi All Rights Reserved. |