ヴァイオレット奇譚2

Chapter7◆「万莉亜―【8】」




 初七日を終え、ホテルに戻った万莉亜は、相変わらずにこにこと微笑み、 リンが帰り道に大量に購入したハンバーガーを、「おいしい」と言ってはよく食べた。
 その間も、彼女の微笑みは完璧だった。

 それからさっさと入浴を済ませ、きちんと寝間着に着替えた彼女は、八時前にベッドに入り、 「疲れた」と呟いた後大あくびをして横になった。

 それを窓際のソファからひたすら静観していたクレアは、万莉亜を見張る一方で、 昼間の永江とのやり取りを思い返していた。
――「もう少し、心のままに生きたらどうですか」
 彼は、万莉亜の祖母と同じことを言った。
 
 心のままに生きることを選んだから今がある。
 祖母に言われたときもそう思ったし、今日永江に言われたときも同じ事を思った。
 今更誰に賛同を得たいわけでもないが、自分のアンジェリアに対する執着は、よほど周りは 理解しがたいらしい。
 でもそれは、万莉亜を手放したい事と同じ意味ではない。
 アンジェリアを選んだ末に、万莉亜を手放したわけじゃない。

 ただ、こちらが本来の道なのだと、今更に思い知っただけの話だ。
 足掻いても、結局逃れられないのだと知った。だったら、これ以上、それがたったの一年でも、 無駄に耐えるのは我慢ならない。今すぐに終わらせたい。

 それが、心の叫びだった。
 それに従い、非情なやり方で万莉亜を傷つけた。
 それでも良いと、心が凶悪な本音を叫んだ。



「……クレアさん?」

 暗闇の中、万莉亜の声に我に返ったクレアが、はたと部屋の時計に目をやる。
 気付けば、午前十二時を回っていた。さきほど時刻を確認したのは八時半。ほんの一瞬の隙に、 三時間以上もの時が過ぎていた。

「うなされていましたよ」
 ベッドの上から聞こえた彼女の言葉に、初めて自分が眠っていた事を知る。
 そう言えば、最近ろくに睡眠を取っていなかった。そのせいだろうか。こんな風に意識を手放してしまうのは、 とても久しぶりだ。

 空調の効きすぎた部屋は少し乾燥している気がして、喉が渇く。
 咳払いをしながら立ち上がると、クレアは透明のグラスに注いだ水を二つ用意して、一つをベッドの上の彼女に渡した。 万莉亜はそれを黙って受け取り、促されるままに飲み干すと、小さく息をついた。

「……夢を見ていました」
「何の夢?」
 ベッドの端に腰掛けて、たずねてみる。
 彼女が、こんな風に穏やかに話しかけてくるのは、いつ以来だったろう。

「花の夢です」
「花?」
「……でも私の視界はすごくぼやけていて、せっかく咲いた花の色が、よく見えなかったんです」
「……」
「それだけです。でも、すごく長い夢でした」
「そう。もう一度眠ったら、続きが見られるんじゃない?」
 気休めにそう言ってやると、万莉亜は悲しそうな笑みを浮かべて、静かに首を振った。
「もう、無理です」
「どうして?」
「……クレアさん、私に、さよならを言ってください」
 小さな、けれど芯の通った声で、万莉亜が言う。彼女は、予想外の言葉に息を呑むクレアを 真っ直ぐに見据えて、もう一度告げた。

「さよならを、言ってください。私は、大丈夫ですから」

 決意の瞳に涙を浮かべた万莉亜から、目が離せない。
 もう、逃げられない。なぜかそんな風に思った。

 多分全ては、彼女のさよならから、逃げるためだった。



******



 さよならを言って。
 私が、あなたを傷つける前に。そんな人間に、なってしまう前に。

 静寂に包まれた部屋で、時計の秒針だけが規則的に音を響かせる。
 ベッドの端に腰掛け、長い間俯いていたクレアが、おもむろに顔を上げて万莉亜を捉えた。
 数分の沈黙だったはずだ。けれど万莉亜には、一瞬の出来事に思えた。次に彼が口を開いたとき、 全てが終わる。この沈黙が永遠に続けばいいと性懲りもなく願っていたのは、未だ色濃く残る万莉亜の中の恋心だろうか。
 情けなくて、涙がこみ上げる。
 でも、悲しむのは後で良い。
 怒るのも、嘆くのも、絶望するのも、全部後で良い。

 今は、心の中に潜む、彼を傷つけたくてどうしようもない鬼を、殺さなくてはいけない。
 そのためには、この世に、甘えられる人間なんて一人も居てはいけない。敏感な鬼だ。 誰が、振り上げた拳を甘んじて受け止めてくれるのかを、本能で察知してしまう鬼だ。
 全てを傷つけて、何一つ許さない。そんな、醜い自分の一部。

 でも、今日だけは、優しくあろうと決めた。
 彼の脳裏に浮かぶ最後の自分は、どうしても笑顔でありたかった。

「クレアさ」
「やめてくれ」
 言葉を遮られて、反射的に瞬きをした瞬間、溜まっていた涙が頬に零れた。
 ずっと気をつけていたのに、失敗した。

「言いたくないんだ……」
 そう呟いたクレアは、視線を万莉亜の指先に落としていて、彼女の零れた涙には気付かない。
 拭き取ってしまいたいけれど、指先を見つめられているから、手が動かせない。困り果てたまま 彼の視線の的になっている己の指先を、同じようにじっと眺める。
 しばらくして、クレアが重たい口を開いた。

「……ずっと、多分ずっと、アンジェリアを、愛していたんだと思う」
「…………」
「だから、」
「いいんです。それで十分です」
 寝間着の袖口で、彼が顔を上げるより先に頬の涙を拭う。
「思ってたんです。私たち、きっとお互いに、一緒の未来を想像出来ていなかったんじゃないかなって。 そんな気は、していたんです。私も、……考えないようにしていたんです。なんとかなるって、そんな適当な言葉で…… 濁して……きっと、私、怖かったんです」
 それでも、そんな考えを、改めようと思った矢先の別れではあったのだが。
 それは言葉にせず、万莉亜は力なく微笑んだ。
「クレアさんが、本当は何を望んでいたのか……何も分からなかった。何も見えていなかったんです。……見ようとも、 していなかった」
 お互いが、お互いの傷口の、表面を撫でるだけの優しい関係だった。
 それは心地良いけれど、きっとそれだけだ。

「だから……もう……」

 そう言って口を閉じた万莉亜を、一体どんな瞳でクレアが見つめていたのか、彼女には分からない。 堪えきれずに、俯いてしまったから。
「……万莉亜」
 彼の声が、全身を震わせる。
 それを悟られないように、強くシーツを握ってまぶたを閉じる。
「僕は」
 力を込めすぎて白くなった拳の上に、そっと彼の手が重ねられる。そのあまりの冷たさに、万莉亜が 思わず目を開いた。
「君との未来を、ずっと思い描いていた。幼稚で、きっと笑われるけど」
「……」
「そんな些細な幸せが、手に入る人生なんだって、君が教えてくれた」
「……やめて」
「壊してしまって……ごめん」
 気付くと、万莉亜の手を握っていた彼の手の甲にはいくつも筋が浮かんでいて、とても、熱かった。
「……もう、行ってください」
 涙声でどうにか告げて、そっと手を引き抜くと、万莉亜は相手に顔を見せないようにシーツを引き上げて そのまま横になる。
 しばらくは動かなかったクレアも、やがて立ち上がり、その足音と気配が遠ざかっていくのを万莉亜はシーツ越しに感じていた。

――……さよなら……

 心の中で告げる。
 これでもう、心の中の凶暴な鬼は誰も傷つける事が出来ない。後は、 この小さくて凶暴な悪意を抱えて、一人、消えてしまえばいい。
 誰も許さない。この世界も許さない。
 こんな悪意を誰かに悟られる前に、消えてしまえばいい。だってもう、苦しくて、息も出来ない。

「……て」
 ほら、もう、溢れる悪意が零れ出す。
「……っ……、」
 止められない。また誰かを傷つける。もう立ち直れない。もうダメだ。

「たすけて……っ」

 誰も私を、助けないで。



******



 自我を持った足が来た道を引き返す。そのままベッドに駆け寄ると、白いシーツをめくって、強引に伸ばした腕が、力任せに少女の体を抱きしめた。
 すぐにまわされた腕が、必死に青年の背中を掴む。しがみつくようにしてクレアのシャツを掴んだ万莉亜の指先は、 はっきりと伝わるほどに震えていた。
 たすけて、と、少女がひたすらに繰り返す。

「行かないでっ……!」
 強く抱きしめられた腕の中で、万莉亜は悲痛な叫び声を上げる。
 何も考えずに、「行かない」と答えたあとで、何を口走っているのだろうとクレアが下唇を噛む。 彼女のSOSに、体が心を裏切る。心が、決意を裏切ってしまう。
 嘘じゃなかった。嘘だったら良かった。二つに裂かれた心が、相反する願望を主張する。 そのどちらもが、心のままの切なる願望だった。

「嫌だっ……行かないで……っ、たすけて、一人にしないで……」
 お願いだから、と少女が泣く。
 その小さな体をつぶれるほどに抱きしめて、細い肩に顔を埋めながらクレアが頷く。
「私の事、好きじゃなくてもいいから…………行かないで」
「好きだよ。だから、どこにも行かない」
 長い黒髪が乱れるほどに強く胸に押しつけて心を暴露する。嘘つきだと今度は罵られる。 最低だと叫んで、背中を掴んでいた細い指が爪を立てる。

 そんな風にして激情をぶつけてくる彼女を、ただじっと抱きしめて、クレアは目を閉じた。
 剥がれ落ちた笑顔の仮面を、もう二度と彼女が拾わないように、怒りの矛先を見失わないように、 強く強く抱きしめる。
 その内「放して」と叫び始めた彼女が腕の中で暴れ出しても、クレアは決して腕の力を緩めずに じっと耳を澄ませた。
 いくつかの慌てたような足音が、こちらに向かってくる。
 それからすぐに、鍵のかかっていないドアは開かれた。

「何事だっ!?」
 最初にそう言って顔を見せたのは隣の部屋のリンだった。後ろで、瑛士と ハンリエットがリンの大きな体の隙間からこちらを覗いているのが見えた。

「いいんだ。気にしないで……」
「たすけてっ!!」
 クレアの言葉を遮って、万莉亜が叫ぶ。無我夢中といった感じで彼の腕の中からこちらに 助けを求める少女を見て、飛び込んできた三人は目を丸くする。
「お、おい、……クレア?」
 たまらず、リンを押しのけて不安顔の瑛士が一歩部屋に踏みいる。
「出て行け」
 すかさず、クレアが冷たい声で少年を制止した。
「いやだっ、……たすけてっ!!」
「大丈夫だよ万莉亜」
「いやだぁっ……!!」
 ほとんど絶叫に近い泣き声を上げる少女を見て、三人が三人とも、目を見合わせる。
 ふとハンリエットが廊下に目をやると、少し離れた別の部屋の入り口に立ち、涙をためて震えているシリルが見えた。 慌てて駆け寄り、幼い少女の肩に手を回す。
「万莉亜……どうしたの」
 震える涙声でたずねるシリルに、ハンリエットはどうにか笑顔を浮かべて答える。
「びっくりしたのね。大丈夫よ。万莉亜はちょっと……」
「万莉亜……万莉亜……」
「ちょっと、怖い夢を見ただけよ」
 抱きしめて、軽く背中を叩いてやる。
 怖かった。
 あれは、壊れかけた人間だ。

――「あなたが思うほど人間って強くないのよ。しゃがみ込んだまま、二度と立ち上がれなくなってしまう人はたくさんいるわ」

 自分がリンに投げつけた言葉の重みを、今更痛感させられる。
 それでも、万莉亜は救われると、どこかで信じていたのかも知れない。



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