ヴァイオレット奇譚2

Chapter7◆「万莉亜―【9】」




 収拾のつかない万莉亜の興奮状態は、その後実に二時間も続いた。

 途中、何度か見かねたルイスが鎮静剤の投与を進めたが、そのたびにクレアは考え込んで、 結局は首を横に振り、彼女が疲れ果てるまでその体を離さなかった。

 ベッドに仰向けになって、折り曲げた両腕を腹の上に乗せる。
 痺れていて、当分使い物になりそうもない。
 最後の方は、抱きしめていたつもりがただの拘束になっていた。力の加減も忘れていたから、 彼女の体にもどこか痣が出来ているかもしれない。

 そう思って重たい体をねじり、上半身だけ隣で寝息を立てている万莉亜に向ける。
 先ほどの激昂からは想像も出来ないほどに、穏やかな寝顔だった。

 これの繰り返しだったのだろうな、とぼんやり考える。
 嘆いては怒り、疲れて眠る。これを、ただじっと、何年も繰り返す。でもきっと、 この穏やかな寝顔を見る度に、祖母は一人微笑んで、明日への希望を見いだしたのだろう。
 生への執着を、それ故わき起こる悲しみと嘆きを、それら全ての不満を、彼女が怒っている間だけは明確に感じ取る事が出来た。

「……っ」

 唇の隙間に入り込んだ髪の毛を、はらってやろうと指先を伸ばしたとき、万莉亜が身じろぎと同時に 寝苦しそうな声を上げる。
 ゆっくりと腫れたまぶたが開き、充血しきった黒い瞳がクレアを捉えた。

「……夢を」
 ぼんやりとした表情で、万莉亜が言う。
「夢?」
「夢を、見ました」
「……花の色が見えたの?」

 そうたずねると、彼女は少し驚いたように目を見開いて、それから二回頷いた。

「何色だった?」
「……忘れちゃいました。でも、見たんです」
 言い終える前に、マリアの目尻から、一筋の涙が零れる。それはそのまま彼女の顔と首筋を伝い、 枕に染みを作った。
 そのゆるやかな流れを一通り視線で追った後、再び万莉亜を見つめる。
 情けなさそうに笑う彼女につられて微笑み、まだ痺れている肘をついて上半身を起こすと、 そのまま覆い被さるようにしてクレアが相手の乾いた唇を塞いだ。
 こぼれ落ちた涙の一連の流れにも負けないほどに、自然な行為に思えた。
 罪の意識も、良心の呵責も、ためらいすらもなく、ごく自然に唇を塞ぐ。
 先ほどはあれだけ暴れてクレアを拒絶していた万莉亜も、降りてきた彼の唇に 黙って目を閉じた。

 きっとこの気持ちを言葉にしたら、また袋小路。出口のない迷路で彷徨う羽目になる。
 だから黙ったまま、余計な言葉は一言も漏らさないように、静かに唇を合わせて、どちらからともなく、 腕を回す。
 未熟な感情なのかも知れない。もしかすると、生まれたばかりなのかも知れない。
 だから、その名前を探るのは、もう少し先で良い。

「……夢で」
 ほんの少しのキスの合間に、万莉亜が言う。
 動きを止めて、クレアが首を傾げた。
「聞かれたんです」
「うん」
「許せるのかって……そう、聞かれたんです」
「……」
「私は、ひどいことをたくさんしました。でも、おばあちゃんは、許してくれたんです。 私は、……ずっとそんな風になりたいって思ってた。でも、私はそんな風になれない……あの時の自分を、 まだ許せていないんです」
 剥き出しの悪意も、殺意も。理不尽な悲劇も。
 だけど、一番許せないのは……。

 そう呟いて、万莉亜がクレアを見上げる。
 涙はもう、堰を切ったように溢れ出していた。

「もうだめです。鬼が、クレアさんを、見つけてしまったんです」
「……万莉亜?」
「でも、……私が、逃がしてあげるから」

 ふいに伸びてきた腕に頭を抱えられ、抵抗する事もなくクレアがそのまま目を閉じると、 少しだけ湿った彼女の唇の感触が伝わった。
 涙の味がして、ひどく胸が締め付けられる。

 それから、ゆっくりと目を開けた。



 万莉亜の姿が、消えていた。



******



 途中、幾度となく退場を試みようと思ったが、自分がここにいる事を 知っているはずのクレアが何も指示を飛ばしてこない事に躊躇し、 結局部屋の隅にあぐらをかいていた仏頂面のリンは、繰り広げられるラブシーンに 目のやり場を失っていた。

――あんなに大人しいんじゃ、俺はいらねぇだろが……

 何かあったときのための保険で待機をしていたが、いい加減馬鹿らしくなってくる。
 故郷に恋人を残したまま、命をかけてまでクレアの私情に付き合ってやっているというのに、あのざまは何だ。

――よくまぁ、白々しく……

 あれが愛情でないなら、あれが欲望でないのなら、一体全体何だというのだ。

 しかし、これではっきりした事が一つ。結局、自分の押し売りは正しかったのだ。
 あの子はハンリエットの言うとおり、紛れもないクレアの恋人だ。そしていつか必ず、あの複雑で扱いづらい 男の希望になるだろう。
 そうなれば、残された問題はただ一つ。こちらも随分厄介で、根深い事に違いはないが……

「……万莉亜」

 ふいに聞こえてきたクレアの声に、俯いていたリンが顔を上げる。
 それから目を凝らし、我が目を疑う。

「あ、あれ?」

 間抜けな声を出して立ち上がり、リンが慌ててベッドに駆け寄った。
 そこに居たのはクレア一人で、万莉亜の姿は部屋のどこにも見当たらない。
「え、あ、あれ? あの子は?」
 相手の表情からして、聞いても無駄だということは気付いていたものの、そう尋ねずにはいられなかった。 人が一人、一瞬の間に、忽然と消え失せた。

「そんな馬鹿な!」

 リンが叫んで、ベッドのシーツをひっくり返す。
 もちろん、万莉亜の姿は見当たらない。
 そうこうしている内に、隣で呆然としていたクレアが、部屋を飛び出して行ってしまう。その後を慌てて追って、 青年の腕を引っつかんだ。

「おいっ、クレア、どこに行くんだよ!!」
 止めるリンの腕を患わしそうに振り払って、クレアが真っ直ぐに向かった部屋では、暢気な顔で 瑛士がテレビゲームにふけっていた。
 突然蹴り開けられたドアに驚いて、少年が持っていたコントローラーを手から落とす。
 その部屋の隅には、鎖で体を拘束されていたアルカードの春川が、瑛士に負けず劣らずと暢気ないびきをかいていた。

 鎖を引いて乱暴に春川の体を起こすと、クレアはその頬に強く平手を張って男を覚醒させる。
「ぅあっ、……え!?」
「この場所を誰かに喋ったのかどうか。正直に答えないと今すぐ食うぞ」
 淡々とした台詞を早口でクレアが告げると、春川はブルブルと首を横に振って否定する。
「し、知りませんよ。大体、私にはべったり瑛士くんが監視についていたわけですから」
「おい、何かあったのか」
 不穏な空気を察したのか、少年もおずおずと口を挟む。
「マリア、きえた」
 リンの簡潔な説明に、瑛士が目をぱちくりさせて息だけの声を吐き出した。
「ちょ、え、き、消えたって? 脱走!?」

 混乱する瑛士をよそに、リンは少し思考を整理させてから、春川の前に膝をついていたクレアの腕を引いて 一旦部屋の外まで引きずっていく。
 同行者の中で唯一の捕虜である春川をまだ疑っているクレアは、そんなリンの腕を振り払おうとするが、 結局は絶対的な体格差を前にして、強引に放り出された青年はあっけなく廊下の壁に背中を打ち付けた。

「いっ、てぇなっ!」
 ムキになって言葉を乱す青年に苦笑してしまう。
「お前は瑛士か」
「…………」
「まぁ落ち着け。とにかくだ」
「僕は落ち着いてる。だから、邪魔しないでくれ」
 一歩踏み出したクレアを、リンが再び壁に押しやる。さすがに二度目は通用しないのか、 伸ばした腕をひらりとかわされてしまったが、そのために用意していたもう片方の腕で思い切り 首もとを張ってやった。鈍い音を立てて、再び青年の背中が壁に衝突する。

「とにかく、だ。整理させてくれ」
 憎々しげにこちらを睨み付ける相手の視線を無視して、話を続ける。
「俺は離れていたし、あの時はよそ見をしていたんだ。詳しく聞かせてくれ。 一瞬で人体が消えるだなんて事はあり得ない。しかしそれは起こった。……つまり」
「……」
「俺たちの目が、盗まれたと考えるのが妥当だ」
「……分かってる」
「いいか。今現在この世に現存する同族で、俺とお前の視界を操れる者なんざ、たった一人だぞ」
「分かってる。でも、日本にいるわけがないだろ。ここはもう、散々探したんだ」
「俺とお前の鼻を盗む事だって、わけないさ」
「……」
 黙りこくってしまった相手を見て、リンも唇を尖らせる。

――……アンジェリア……

 現存する唯一の第二世代。
 クレアとリンの力を持ってしても、まともにやり合ったら到底勝ち目のない化け物。

――まさか、日本にいるのか……?

 全身が総毛立ち、リンが身震いをする。
 第二世代とやり合うのは初めてではないが、多分、長いブランクのせいだろう。 香港での平和な生活ですっかり腑抜けてしまった今の自分に、かつての勘が取り戻せるのだろうか。

「……まぁいい。とにかく、当てはなくとも探すしかないな。人体が消えるだなんて事はあり得ないのだから、 俺たちの目が馬鹿になっただけで、万莉亜はまだこの辺りにいるはずだ」

 そう言って再び瑛士の部屋に踏み入る。
 確かにクレアの言うとおり、今のところ最も怪しいのがこの捕虜だ。それでも、確率は低いだろうが。
「……クレア?」
 壁の前に突っ立ったまま、身動きしない相棒に振り返ってリンが首を傾げる。ゆっくりと 顔を上げたクレアの瞳に戸惑いと驚愕の色が見え隠れしている。

――「聞かれたんです」

 誰に。

――「花の夢です」

「おいクレア! 何ぼけっとしてるんだ。とりあえずホテルを封鎖させ」
「いた」
 リンの怒声に混じって青年の口から短く告げられた言葉。理解出来ずにリンが眉根を寄せる。

「……リン」
「クレア?」
「人体は、消えたのかも知れない」

 その不可思議な説明に、リンが呆けていられたのもほんの数秒の事だった。
 理解したくなんか無いのに、クレアの唖然とした表情を見ている内に、その言葉の答えが、じわりじわりと見えてきてしまった。



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