現在時刻は午後九時五十分。
――そう。キッドの予告した犯行時間の十分前だ。
問題の宝石が展示されているホールには、船の乗客のほとんどが集合している。
ドイツの富豪たちはどうか知らないが、警察以外の乗客のお目当ては世間で話題の怪盗一人。
宝石が収められているショーケースの周りには数人の警察官。
ホールには二つのショーケースには一つずつの宝石が収められており、
そのショーケースの間には、どちらから盗られても動きやすいよう、中森が構えている。
他にも富豪のボディーガードらしき人間が数人、銃を構えて立っている。
相当数いるホールには話し声が絶えない。当然、多少の物音がしても聞こえるわけがない。
たとえ、天井のタイルが少し音を立てて外れても、誰も気付く者はいないだろう。
それを良いことに、キッドはその隙間から顔だけ覗かせると、現場の偵察に入った。
(うへー……警察の奴らうようよいやがんの。まぁ、お陰で逃げるのは簡単そうだけど。
でも一部屋に集結しすぎなんじゃねーのか? 警察にしたって、一般客にしたって……。
って、あれ? 何で一般客がこんなに? 目的は確か大富豪の船旅だった……よな?)
キッドはその状況に首を傾げるが、すぐに犯行準備に取り掛かった。
「おい、じいさんにちっこい姉ちゃん」
哀にしても博士にしても、大してキッドに興味がないらしい。
付き合いでホールに来てはいるものの、端の方で立っていた。
「おぉ、平次君。どうしたんじゃ、一体」
哀は平次の周りを見渡して、不思議そうに平次を見上げる。
「あら、珍しいわね。工藤君は一緒じゃないの?」
「訊きたいんはこっちの方や」
「え?」
平次は顎に手を当てると、眉をひそめて首を傾げた。
「ホールまでは一緒に来たはずなんやけど、俺が和葉らと話しとったら消えてしまいよった」
「さてのォ……。ワシらは見とらんが……」
「まあ、彼のことだし、キッドが姿現す所にでもいてるんじゃない?」
そう言いながら、哀はグルリと室内を見渡すと、口元で意地悪く笑う。
「人の目を盗んで何処かへ隠れるか消えるかするのは、彼の得意技だもの」
「せやけど、このホールには何処にも――」
平次が再びホール内を見渡そうとした時だった。
部屋の明かりが消えると同時に、ショーケースのガラスが割れる音が部屋に響き渡る。
「――おいっ! 誰か明かりを……!」
暗がりの中で無線に向かって叫ぶ中森とは逆に、落ち着き払ったキッドの声が答えた。
「無理ですよ、中森警部」
「何ィっ!?」
「電気室の警察官は恐らく全員夢の中でしょうから」
「貴様、今何処に……!」
暗闇の中、何も見えない上空に向かって叫ぶが、依然として相手の姿は見えない。
「目的の獲物が手に入れば、その場に長居はしないものでしょう、警部?」
そう言いながら、キッドは暗闇と人ごみに紛れ、ホールの出入り口付近まで行く。
「そうそう。私を捕まえようとお思いなら、もう少し秘策を考えた方が懸命かと思いますが」
「……なっ!」
「それでは、今宵はこの辺で」
「待て、キッド! お前にそんなこと言われる筋合い、何処にある!?」
何とか出入り口へ行こうとするものの、警官や乗客やらでなかなか進めない。
「邪魔だ! どけっ!」
暗がりの中では全員右も左も分からない。
避けようとしたところで、余計に道を塞いでしまうものだろう。
キッドはホールを出た直後、中の人間にバレないように、こっそりとホール内を覗き込んだ。
中では多くの人がひしめき合い大混乱するなか、必死で人並みをかき分けている中森の姿が見える。
「ったく。少しは捕まえれるようにしてやろうっつーアドバイスなのに、素直じゃねーな。
大体あんなに人がいたんじゃ、邪魔になるのは目に見えてるだろーが。
せめて移動ルートは確保するなり、なんなり対処すりゃ良いものを……。
詰めが甘いから、いつまで経っても逃げられんだよ」
他人事のように呟いて肩をすくめると、キッドは唯一光のある甲板へと向かった。
甲板へ出ると満月の月明かりが海に反射して輝いているのが見えた。
それと同時に、遮るもののない月明かりが、甲板を明るく照らす。
盗ってきた宝石を月明かりに照らしてみるも何の変化がなく、それを見てつい無意識に呟いた。
「まーたハズレですか。――ったく、わざわざこの船に……」
「宝石に当たりはずれがあるなんて初めて聞いたぜ?」
キッドが人の気配を感じて身構えるのと、背後から声が聞こえるのはほぼ同時だった。
驚いて振り返った先に、見慣れた小学生を認めると、思わず甲板の手すりまで後ずさる。
「――め……い探偵!?
ちょ、ちょっと待てよ! 何でオメーがここにいるんだよ! んな話俺は一度も――」
そのあまりにもの驚きっぷりに、コナンは呆れを通り越して目を点にする。
「俺だってこの船に乗ってから聞いて、驚いたけどな。
だからって、オメーちょっと驚きす――」
「驚いたって……! 全然そんな様子ねーだろうが!」
「そりゃ、今の時点でオメーが今日現れる、って知ってなきゃ驚いてるけど、
実際、分かってんのに今更驚く必要もあるかよ」
「……いつ知ったんだよ? 俺がこの船に宝石を盗みに現れるって」
驚きながら訊かれて、コナンは腕を組む。
「そうだな……。何となく知ったのはキャビンに荷物置いて甲板に出た時かな。
確信を得たのは、船が出港して船内散策してた時にホールで大声張り上げてる中森警部に会って、
そこで初めて詳しい情報教えてもらった時だよ」
「『船内散策してた』だァ!?」
「あ、ああ……。そうだけど何だよ? その言い方……」
「……因みに見て回ったのどの辺だ?」
思わぬ質問の嵐に、コナンは無意識に顔をしかめる。
「キャビンからフロント、そこから甲板へ行ってロビー通ってホール。
んで、またロビー戻って、その辺のソファに座って夕飯の呼び出しかかるまで、
一緒に回ってた奴と話してたけど? 何だ? 事情聴取でもやってるつもりか?」
「……いや、そういうわけじゃねーよ。俺も船が出港してから、
ホール付近ぶらついてたっつーのに気付かなかったのに不思議でさ」
「不思議なことあるかよ。船が出港したのは午後三時半。そこから夕飯までの間、
いくらホールにいてたとしても、俺は色んなとこぶらついてたし、偶然会う方が――」
「ちょっと待てよ。俺はホールの中には入ってねーぞ?」
コナンの言葉に、キッドは意外そうな様子で口を挟むが、
言われた内容に、今度は逆にコナンが驚いた様子で言葉を返す。
「え? バカ言うなよ。どうせ警備員か何かに変装にしてこの船に――」
「いや? 今回は素で乗り込んでるぜ。『黒羽快斗』としてな」
平然と言われた言葉に、コナンはしばらく目を白黒させて黙り込む。
それが次第にしかめ面へと変わり、最終的には思いっ切り目を見開いた。
「はぁっ!? 招待もされてねーオメーが、何でこの船に乗れんだよ!
大体、この船に招待された一般人は、船の提供者の知り合いだけだろ?
中森警部だけ、キッド関連の警備の都合で乗り込んでる警察関係者――」
「ああ、一般人がやたらと多いのはそのせいってわけね。
実はな。警部の娘と俺が知り合いでさ。警部に頼んでもらって乗せてもらったんだよ」
「中森警部に頼んでもらった、って……。でも待てよ。
いくら中森警部の娘さんが頼んだとしても、オメーが来たがるのに違和感とかあるだろ」
「大丈夫だろ。そりゃ警部と普段の俺が顔見知りじゃなきゃ、
わざわざそんなこと頼むのに違和感持つかもしれねーけどな。
昔からの顔馴染みの頼みに、いちいち違和感持つような人じゃねーよ」
「……でもそれなら、中森警部にオメーが捕まった時に正体見て驚かねーか?
顔なじみの人物がキッドだったなんて。それにオメーの彼女も可哀――」
「ハ! 俺が警部に捕まることなんてあるわけねーだろ?
そりゃ確かに、アイツの方は……ってちょっと待て!」
余裕そうな調子で話していたキッドだが、一転して言葉を切った。
「お前……! 今何て言いやがった!?」
詰め寄るキッドに、逆にコナンが驚いたように言葉を詰まらせる。
「な、何って……どの事だよ……?」
「だから、青――じゃなくて、警部の娘が何だって言ったかって……!」
見るからに平常心を保っていないキッドに、コナンは首を傾げた。
からかいでも皮肉でもなく、ただ自然な口調でキッドの問いかけに答える。
「『オメーの彼女も可哀想に』って……。何か変なこと言ったか?」
「誰が言ったよ!? んなこと!」
「でもオメーの話を聞いてりゃ、普通はそう思うだろ。
ただの知り合いが、船に乗せてくれ、って言ってもすんなり承諾するわけがない。
承諾したところで今度は中森警部が不思議に思うだろ? 『何で頼むんだ』ってな。
で、中森警部とも、その娘さんとも顔見知りってことは、結構仲が良いって――」
「――殺人事件でもねーのに、働かせるなよ! その頭!」
ムキになって叫ぶキッドをコナンは面白そうに見やった。
「じゃあ、間違ってねぇってわけだ」
「は?」
「俺の推理」
「――!」
余裕綽々と笑うコナンに、キッドは反論の言葉が見つからず、返す言葉に詰まる。
こうなれば、反論したところで墓穴を掘るだけに違いない。
キッドは大きくため息をついて、コナンを恨めしそうに見ると、
その場を取り繕うように、咳払いを一つした。
「人をからかったからには、どうなるかお分かりで? 探偵君?」
「さあな。まあ、閃光弾はないだろうな、逃げるようで癪だろうから。
かと言って、催眠スプレーで眠らせるのも理由が分からねぇし。
妥当なのはトランプ銃とやらて、でこっちを窮地に追い詰める、ってやつかな」
「いや……。どうせなら似た思いをさせたほうが良いかと思いましてね」
「?」
「幸か不幸か探偵君の恋人も来ているようですから?
どうせなら、彼女に本来の姿で逢わせてあげた方が喜ぶんじゃないですか?」
仕返し、とでも言わんばかりでコナンの弱点をつくキッドだが、
コナンはそれに対して、企むような表情と怒りを混ぜたような表情で睨んだ。
「やれるもんならやってみろよ。海の中に落とされて、サメの餌にされても良いんならな」
2007年度編集。描写の追加と、回りくどい表現と会話をカットしたそうな。
地の文の自然な付け方が苦手らしかった当時。……今ではまあマシになったと思う。
ただ、それでも今回の修正でのメインは、描写表現の手直しという、昔と変わらない修正箇所。
コナンとキッドが会って以降の一部会話シーンを撤去してる以外は、特に大幅な削除もなく。
しかし……。
最後に言わせてるキッドのセリフ。何気に冗談になってないよな、っていう。
個人的には、魚嫌いの快斗に向けてあえて「鮫」という文字をコナンに言わせるために、
キッドにコナンをけしかけてもらったわけですが、天空でやらかしてるよ、この人。